大坂城は織田信長を超えた象徴。豊臣秀吉が込めた狙い
CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。9月5日の放送では、豊臣秀吉・加藤清正・陣笠隊の足軽・太助の3名が出演し、大坂城の築城を取り上げました。
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この記事をradiko(ラジコ)で聴く大坂城の築城が始まった日
「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある話題の中で取り上げたのは、1583年9月1日に豊臣秀吉が大坂城の築城を開始した件について。
豊臣秀吉「太助よ、儂が大坂城築城を始めたのは織田信長様が亡くなられてからじゃけど、信長様の死後何年後のことじゃと思う?」
太助「すぐではござりませぬか?」
信長が本能寺の変で斃れたのは、1582年6月2日。秀吉が大坂城築城に取り掛かったのは、そのわずか1年後です。
その理由は「大坂に大きな城を築きたい」という信長の構想を実現するため。
本能寺の変後、信長の後継者となった秀吉が「我こそが信長様の後継者である」と民に知らしめるためにも、早期に取り掛かったのです。
築城の名手の原点
大坂城は守りの城であると同時に、象徴としての意味も持っていました。
そしてこの築城には、加藤清正も大きく関わっています。
清正「儂は採石奉行として、石がたくさんあるんじゃけど、その中からより良い石を選んだり、運び出したりする役目を秀吉様からいただいたんじゃ。最初にその役目をいただいたのがこの大坂城築城での」
秀吉「清正はな、儂のそれまでの城づくりは見学しておったんじゃが、造った経験はこの大坂城までなかったんじゃ」
この大坂城の築城から、築城の名手と呼ばれた清正の活躍が始まったとも言えます。
ちなみに、採石のために秀吉は、清正以外にも片桐且元、細川忠興を採石奉行として小豆島へ派遣しました。
大坂城は居城用ではなかった
秀吉が住んでいたという印象が強い大坂城ですが、実は外交のための性格が強く、居城としては利用していませんでした。居城としたのは、子の豊臣秀頼です。
秀吉「儂は京の都に聚楽第という大きな屋敷を作っておったし、晩年になると伏見城という城を作って、そこに住んでおったからの。大坂城はどちらかというと、先程も言うた通り、信長様の後継者は儂じゃぞと民に広く知らしめるために作った城である」
もうひとつ見逃せないのが、大坂城が立つ前にこの場所に何があったのかということ。この場所は、信長が何度も戦をした場所であり、本願寺があった場所でもあります。
信長は、本願寺との戦いに最終的に勝利し、この地から本願寺の勢力(当時の宗主は顕如)を退去させました。
秀吉「信長様の安土城よりも絢爛豪華で大きな城だったのも重要だったわけじゃ」
ただ、現在残っている大坂城は秀吉が作った当時の城そのものではないのが残念なところ。秀吉亡き後の大坂城は、関ケ原の戦いを経て徳川家康が征夷大将軍に就任します。その後大坂冬の陣・夏の陣を経て落城し、燃えています。
また、大坂冬の陣の後には、徳川方が大坂城の強固な守りとして機能していた堀を埋めるなどして、変容していったころも見逃せない点です。
その後、家康が建て直したものが現在の大阪城として残っていることを残念がった秀吉でした。
厳密には、この家康が立て直したものは太平洋戦争の空襲で焼け落ちており、現在の城は戦後復興されたものです。
とは言え、激動の歴史を経験してきた城にしかない貫禄は今も人々を惹きつけています。
(葉月智世)
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