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徳川家康、上杉景勝移封の理由を弁明する

徳川家康、上杉景勝移封の理由を弁明する

CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。8月22日の放送では徳川家康・前田慶次・陣笠隊の足軽・踏舞の3名が出演。「この日何の日?」コーナーでは、上杉景勝が会津から米沢へ移封となった件を取り上げました。

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上杉景勝が会津から米沢へ移封された日

「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある話題の中で取り上げたのは、1601年8月16日、徳川家康の命で上杉景勝が会津から米沢へ移封となった件について。

前田慶次「儂も仕えておった上杉景勝様が会津120万石から米沢へ移封になる。これが関ケ原の戦いの後に起こった話であり、実際に家康様も存分に関わりのある出来事である。
景勝様と家康様の話のこじれがあっての、関ケ原の後家康様によって移封が告げられる流れになるんじゃが…」

景勝は、家臣の直江兼続、そして慶次と共に京都へ向かい、そこで移封が告げられます。

徳川家康「関ケ原の合戦というのはな、天下分け目の大きな戦とされておったんじゃ。日本の歴史の中で最も重要で大きな合戦。にもかかわらず、1日で決着が着いた。これは世界的な歴史で見ても非常に珍しい戦であったの」

その中で、関ケ原の戦い後に家康が抱えていた課題が、会津120万石の大大名であった上杉景勝の処遇問題でした。

直江状を叩きつけられて怒り爆発

景勝は、豊臣秀吉の政権下で家康と同じく五大老を務めるうちの1人。そのため力も持っており、有力な大名かつ家康にとっては簡単に処分できる存在ではありませんでした。

家康「石高だけで言えば、儂の2分の1かの。五大老の中では2番目か3番目の存在じゃった。景勝が秀吉殿亡き後、戦をしそうな気配があった故に儂が『戦をするではないぞ』と注意したら、現世で言うところの逆ギレの手紙(直江状)が届いたんじゃ」

「直江状」は、景勝の家臣である直江兼続が家康から掛けられた「戦をする気ではないだろうな」嫌疑に対して反論し、さらに家康が秀吉亡き後に許可なく進めていた大名同士の婚姻について物申した書状。

この内容に対し、関ケ原の合戦後に家康が「そういう態度は許さんぞ」ということで征伐に行こうとしたのです。

西軍と同様に処分した家康の言い分

その隙を突いたのが、関ケ原の戦いでは西軍となった石田三成でした。
西軍の大将は、表向きは同じく五大老の毛利輝元ですが、実際は三成。大坂で挙兵し、激突したのが関ケ原だったため、関ケ原の戦いと後世呼ばれるようになりました。

家康「関ケ原の戦いの始まりは、上杉景勝が儂の言うことを聞かなかったことじゃ」

とはいっても、それは最終的に勝者となった徳川家康側の言い分。西軍側である石田三成などから見れば、一方で禁止されていた大名同士の婚姻を徳川家に有利になるように進めていた家康のやり方にも問題があったとも言えます。

家康「関ケ原の合戦が終わった後、西軍に与した者たち以外で誰が悪いとなるか?それは当然、関ケ原の戦いのきっかけを作った上杉景勝が一番悪いんじゃ」

語尾を強めて言うあたり、相当恨みを持っていたことが伺えます。

確かに、東軍である家康から見れば、勝った以上は西軍方の武将である毛利輝元などの処分もですが、同様に直江状を叩きつけてきた上杉景勝を許せなかったことは容易に想像がつきます。

ただし、秀吉亡き後に天下を取らんと秀吉の遺児であった秀頼を蔑ろにしたのもまた事実。歴史をどの立場から見るかで解釈も変わることがわかる事件でした。
(葉月智世)
 

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