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携帯ラジオでドラゴンズ応援の日々に登場した若竜のプリンス(06)

携帯ラジオでドラゴンズ応援の日々に登場した若竜のプリンス(06)

携帯用トランジスタラジオを買ったのは、中日ドラゴンズが広島東洋カープに破れて連覇を逃した翌年1976年(昭和51年)だった。

ラジオ実況中継から離れない!

高校2年生になっていた私は、ますますドラゴンズにのめりこんでいた。
日記に毎日のスコアとゲーム寸評を書くことはもちろん、家族での中日スポーツ見出し予想も続けていた。自分の机にはラジオがあり、毎日ゲームの実況を聴きながら勉強していた。
当時は「浴室用防水ラジオ」などという便利なものはもちろんなく、風呂に入る時は机のラジオをビニール袋に入れて防水措置を施した上で、浴室に持ち込み、実況を聴きながら入浴した。ゲーム中は一瞬たりとも実況中継から離れたくなかった。ナゴヤ球場の試合の時はラジオより一瞬早く、窓の外から近くにある球場の歓声が浴室に届いていた。
このシーズンから、中日球場は、運営会社「中日スタヂアム」の倒産によって、ナゴヤ球場として生まれ変わっていた。

修学旅行先でもドラゴンズ

小型のラジオを買った理由は、修学旅行そして卓球部の夏合宿と、その年は家の外で宿泊する機会が多く、どうしてもラジオで実況を聴きたかったためである。
通っていた愛知県立明和高等学校の修学旅行では、6月に福島県の裏磐梯高原に3泊4日で出かけたが、一生懸命チューニングをしてドラゴンズのゲームをフォローしていた思い出がある。
修学旅行初日の6月9日、宿舎は桧原湖畔にある裏磐梯観光ホテル。大広間で全員揃っての夕食が18時20分から始まる。ほぼ同じ時刻にドラゴンズのプレイボールである。夕食の後は、女子の部屋へ行き、誰が持参したのか「ツイスターゲーム」をやる。床に広げたシートにはカラーの丸が印刷されており、ルーレット様のものを回して指定された色に両手両足を付いていくという“体力派ゲーム”である。ドラゴンズがリードされていたため、ラジオのスイッチも消してゲームを楽しんだ。21時半からはクラスミーティング。その部屋へ向かう途中・・・
「その時、ラジオで『中日、マーチンの3ランで3対3の同点!』を中継が流れ、飛び上がる」と日記には書いてある。
常にトランジスタラジオを持ち歩き、ナイター中継を聴いていた。

裏磐梯で聴くドラゴンズ実況

翌日のこと。大浴場はクラスごとに順番に入るが、この日わがクラスは20時から入浴のローテーション。日記には「風呂へ向かうが、4対0で中日がヤクルトをリード」と書かれてある。
翌々日は3日目、打ち上げ前夜でもあり、全員が参加してのファイヤーストーム。さすがにこの場ではラジオでナイター中継を聴くわけにいかず、ドラゴンズについての記述はないが、日記の最終日分の朝のくだりに「中日が阪神に4対2で勝ったというニュースを手に入れ万歳!巨人は負け」とある。
さらに名古屋への帰路、18時すぎには「新幹線がナゴヤ球場に差しかかる。いよいよ名古屋だ」と書いている。一瞬たりとも、ドラゴンズを離れたくない高校生の自分の姿があった。

ドラゴンズブルーの夏合宿

7月には卓球部の夏合宿があった。
当時、男子は学校の教室にゴザを敷き、その上に貸しふとんを敷いて寝た。風呂は学校近くの銭湯に行き、風呂上りに駄菓子屋でジュースを飲むのが苦しいトレーニングの中、ささやかな楽しみだった。キャップの裏にクジがついていた「チェリオ」が人気だった。そしてラジオでナイターを聞いた。
合宿の3日目、7月23日、読売ジャイアンツの王貞治選手は700号ホームランを打った。ドラゴンズは阪神タイガースを6対2で破った。トレーニングのダッシュの合図用に持っていた笛を吹いて、卓球部メンバーで勝利の手拍子を打った。
このシーズンのドラゴンズは与那嶺監督体制の5年目。後楽園球場が人工芝に変わった年でもあるが、ドラゴンズはなぜか人工芝の球場で勝つことができず、ジャイアンツに0勝12敗1分けという成績だった。V2に向けて選手もファンも一丸となった1年前からは想像もつかない現状だった。

竜のプリンス田尾安志選手

そんな苦しいシーズンだったが、チームにはプリンスが誕生した。田尾安志選手である。
ドラフト会議でドラゴンズは、同志社大学で投打に活躍していた田尾選手を指名して入団。背番号は2。甘いマスクと明るい笑顔にファンは男女問わず魅了されたものだ。
シーズン当初こそ、1軍と2軍を往復していたものの、季節が夏に向かう頃にはレギュラーの座をつかみ、結果的に新人王を手に入れた。私は通学の定期入れに、新聞から切り抜いた田尾がヒットを打った瞬間写真を入れて持ち歩いていたほど好きだった。
田尾選手はその後、ドラゴンズの主軸に成長していく。1982年(昭和57年)には大洋の長崎啓二選手と首位打者を争い、優勝を決めた最終戦では5打席連続敬遠。
最後の打席ではボール球を2回空振りして無言の抗議をしたことは今も記憶に残っている。田尾はこの年から3年連続でセ・リーグの最多安打を記録するなど、チームに欠かせない選手になった。

衝撃と涙のトレード

1985年(昭和60年)1月、田尾選手はキャンプイン直前に、西武ライオンズへ電撃トレードされることになる。選手会長として球団に対し意見を言い続けたことが理由だとも報じられたが、私ばかりでなく多くのドラゴンズファンが心から愛していた選手だけに、名古屋の町には衝撃が走ったのだった。
その日は土曜日。午後の衝撃的なトレード発表に言葉もないショックを受けていた私に、阪神タイガースファン一筋の職場の先輩はこう言ったものだ・・・
「江夏(豊)がトレードされた時のオレの気持ちがようやくわかるだろう」
プリンスは実にあっけなく私たち竜党の前から去ってしまった。その後、田尾選手は西武から阪神タイガースに移籍して現役を終える。ドラゴンズを出てからの成績は決して目立つものではなかった。そして2005年(平成17年)には、新球団・東北楽天イーグルスの初代監督に就任するも、わずか1年で辞任した。

この田尾選手のトレードは、いよいよ80年を迎える中日ドラゴンズ球団史では、1選手のトレードかもしれない。しかし、そこに我々“ファンの思い”という要素を加えた時・・・それはとてつもなく大きな傷跡だと思っている。ドラゴンズファンとしてのわが歴史の中で、最も悲しい出来事なのかもしれない。(1976年)

【CBCテレビ論説室長・北辻利寿】
※ドラゴンズファンの立場で半世紀の球団史を書いた本『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』(ゆいぽおと刊・2016年)を加筆修正して掲載いたします。

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