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「関ヶ原の戦い」東軍の総大将は徳川家康。では、西軍の総大将は誰?

「関ヶ原の戦い」東軍の総大将は徳川家康。では、西軍の総大将は誰?

400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組をお届け。10月4日放送のCBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』では、織田信長、徳川家康、陣笠隊の足軽・太助の3名が出陣し、「関ケ原の戦い」について振り返りました。

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今週の出来事は?

「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。

太助「いくつか挙げて参りまする。1556年9月27日は稲生の戦い、1571年9月30日は比叡山延暦寺焼き討ち、そして1600年10月1日は石田三成殿の処刑と言った出来事がござった」

織田信長「稲生の戦いは、弟の信行との戦でな。尾張国が二分していわゆるどちらを推すかを争った兄弟間の戦い(跡目争い)じゃ。この戦いで見事勝利を収めた儂が実権を握った」

今日は出演していませんが、この戦いでは前田利家が大活躍したことでも有名。
また、比叡山延暦寺焼き討ちも織田信長が大きくかかわった事件で諸説ありますが、「第六天魔王」と呼ばれるエピソードにもつながっていると言われています。

処刑に至るまでの出来事

石田三成の処刑は、徳川家康にとっては非常に重要な出来事です。

徳川家康「天下分け目の戦いである関ケ原の戦いは、日本史においては一番大きな戦と後に言われておる。どれくらいの人数が集まったかというと、東軍・西軍あわせて約17万人じゃ」

戦自体は、9月15日の1日で決着がつき東軍である家康が勝利。本来、大きな合戦は数カ月、長い場合は数年かかることも珍しくない中、早朝に始まった関ケ原の戦いは午後には決着するというスピード勝負でした。

決着後、西軍の有力武将であった石田三成は逃走。数日後、伊吹山経由で滋賀県長浜市(当時は木之本町古橋)の山中に隠れていたところで、田中吉政が捕縛。

その後、京都へ移送されて10月1日に同じく西軍の盟友であった小西行長、安国寺恵瓊らと共に六条河原で処刑され、首が晒されています。

なお西軍の総大将は三成ではなく、毛利輝元。
「関ケ原の戦い」当日は大坂城に留まり戦場に姿を見せなかったことから処刑ではなく、周防国と長門国の2ヵ国へ減封されただけで済んだのでした。

現世で人気が高い石田三成

信長は、三成が現世では女性に人気が高いことを指摘。三成だけでなく、西軍に連なった武将の中には真田幸村など、人気が高い武将が数多くいます。

信長「これは何故なんじゃ?」

家康「判官贔屓というやつでの、強い者(勝者)よりも弱い者の背景にある物語や境遇に惹かれるおなご心あってのものかと思い申す」

伝承でも、三成が処刑直前まで豊臣秀吉への忠誠と、再起することを諦めていなかった逸話が伝わっており、それらの話が涙を誘うのかもしれません。

敗者となった三成ですが、総大将ではなかったにもかかわらず、戦の引き金を引いて中心人物となったある意味優秀な一面があったと振り返る家康。

SNSでも戦いが勃発?

ちなみに今年の9月15日、家康は広島で西軍総大将の毛利輝元と弁舌で勝負するというイベントに出陣したそう。
毛利輝元が自滅する一方で、徳川家康が擁護するという、歴史とはちょっと違った展開になったそう。

家康「毎年、9月15日に西軍の者たちが『今年こそは勝つぞ!』とXで大にぎわいしておる。関ケ原の合戦が開始されたとする時間から、石田三成を名乗る者が『いーえーやーすー!』と呟くんじゃ。儂は一度も反応したことはないが(笑)」

戦の当日は他にもXで様々な武将を名乗る人たちや、民衆が共通のハッシュタグを付けて戦という名の呟き合戦をしており、ちょっとした盛り上がりを見せたとのこと。

歴史上では勝者となった徳川家康ですが、現世では西軍であった石田三成の方が人気が高いとぼやく結果となりました。
(葉月智世)
 

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