複雑な運命を辿った「白鳳の貴公子」。興福寺・銅造仏頭

毎週木曜日の『ドラ魂キング』では、CBCの佐藤楠大アナウンサーが仏像に関するトピックを紹介します。6月26日の放送で紹介したのは、奈良市・興福寺にある国宝の銅造仏頭(山田寺仏頭)。頭部だけでありながら「白鳳の貴公子」と呼ばれているこの仏頭の魅力とは?
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佐藤「山田寺仏頭が見られるのは興福寺の国宝館。興福寺なのに山田寺?これには歴史的背景が複雑に絡み合っているんです」
この仏頭は現在の奈良県桜井市にある山田寺の本尊ですが、様々な歴史を経て興福寺に収められています。
飛鳥時代、蘇我馬子が政治の実権を握り、蘇我氏の全盛期を築きました。
天皇中心の政治を作ろうと革命を起こしたのが中大兄皇子とか中臣鎌足による「大化の改新」によって、馬子の孫・入鹿は暗殺されます。
馬子には入鹿以外にも蘇我倉山田石川麻呂という孫がいたそうです。つまり石川麻呂は入鹿の従兄弟ですが、入鹿側ではなく中大兄皇子、中臣鎌足側につきました。
山田寺はこの石川麻呂が建てたお寺なのです。
石川麻呂の没後、天武天皇が彼を偲んで作らせたのが「丈六薬師如来」で、頭部だけではなく胴体もあったそうです。
平清盛の影響
時代は進んで1181年、平清盛が栄華を極めた時代です。
清盛の命で、京の都で仏教勢力を弱める動きが活発化し、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院をターゲットに「南都焼討」が行われました。
この焼き討ちにより興福寺は大きな被害を受け、特に建物、仏像の多くが焼失する事態になりました。
興福寺の本尊も、山田寺と同じ仏様の薬師如来でした。
そのため1187年、興福寺の僧兵が山田寺から「丈六薬師如来」を強奪し、東金堂に本尊として安置したそうです。
その後、本尊を奪われた山田寺は衰退の一途を辿りました。
台座に埋められていた頭部
一方、山田寺から強奪された「丈六薬師如来」ですが、後年興福寺が落雷による火災に見舞われて焼失してしまいます。
ところが、1937年(昭和12年)、興福寺東金堂の解体修理作業中に、焼失した薬師如来の台座から頭だけが出てきたそうです。
佐藤「誰かが台座の中に埋めたとしか考えられないんです。失われたとずっと思われていたものが、まさか興福寺の本尊のすぐ下にあったんですよ!」
そして「魅力的なのはストーリーだけじゃないんです」と続ける佐藤。
日本らしい仏像の元祖?
山田寺仏頭は白鳳時代の685年に作られたことが特定されており、歴史的に大きな価値があります。
つまり仏像を見れば、作られた時の流行の作風がわかるのです。
飛鳥時代に作られた法隆寺の仏像は「アルカイックスマイル」という微笑みが特徴ですが、これはギリシャ文化の影響を受けたものです。
山田寺仏頭は、さらに50年ほど経ったのが白鳳時代に作られましたが、当時の仏像は日本オリジナルの顔に変化しているとのこと。
佐藤「時代をさかのぼって日本らしい文化はどこだ?と言われればここに当てはまる。日本らしい文化の最初と捉えていいのかなと思ってます」
欠損していても白鳳文化が伝わる
山田寺仏頭は頭の部分が完全に残っているわけではなく、正面から見ると頭頂部や左耳が欠けており、さらに後ろから見るとお面のように後頭部が欠損しています。
この状況でも、白鳳文化特有の立体感がよくわかるそうです。
佐藤「飛鳥時代の仏は、正面から見るとペタンとしていますが、この仏頭は真ん丸でふくよかなお顔。眉毛、唇、頬を触ったら跳ね返って来そうな柔らかさがあり、白鳳の貴公子と呼ばれているんです」
仏頭は高さ98.3センチで「近くで見ると迫力がある」と佐藤。機会があればぜひご覧ください。
(尾関)
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