東京「五反田」の意外な由来とは?江戸城と神奈川を繋ぐ古道「中原街道」
全国の道に特化したバラエティ番組『道との遭遇』では、道マニアがイチオシの道を紹介。今回は、東京に面影を残す「中原街道」を巡りました。(この記事では道情報だけをまとめてご紹介します)
徳川将軍とゆかりのある脇往還「中原街道」とは

平安時代から存在し、江戸城から徳川の中原御殿(なかはらごてん)があったとされる現在の神奈川県平塚市を結んだ東海道の脇往還(わきおうかん)「中原街道(なかはらかいどう)」。

「江戸城の桜田門から西に向かう道は、東海道の裏ルート的な脇往還として使われた。徳川将軍の家康・秀忠・家光はこの道を通っていたそう」と道マニア。この街道はメインの東海道と違って参勤交代もなく、庶民の往来に非常に重宝されました。
その道筋は現在、政治の中枢である霞ヶ関や虎ノ門、オフィス街や歓楽街の三田や五反田を辿っており、そこにはかつての古道の面影が。古道を巡ると、地名の由来や道と街との関わりが見えてくると言います。

虎ノ門駅の近くには、かつて江戸城で使われていた石垣が存在。江戸城の外郭門(がいかくもん)の1つであった「虎之御門」が地名として残り、都内屈指のオフィス街に発展しました。
また、高輪(たかなわ)の一角には、「高輪消防署」と右から左に書かれた建物が存在。まるで灯台のような、レトロな円塔形の造りが目を引きます。「今は『二本榎出張所』という名前に変わっている。この辺りの高台に2本の大きな榎があり、海からもよく見えたので目印になったらしい」と道マニア。
さらに、「縄をまっすぐピンと張ったような一直線の道を“縄手道(なわてみち)”と言う。“高台の縄手道”から、“高輪”と呼ばれるようになった」と言います。

南下した五反田エリアは、「目黒川が長年かけて削ったから低い。川沿いは水があるから田んぼになり、ここには田んぼが約1500坪あった。300坪を昔の単位で“一反(たん)”と数えていたので、1500坪は“五反”。“五反(約1500坪)”の“田んぼ”で『五反田』」とのこと。

かつて中原街道は、目黒川沿いで作られた野菜や農作物を運ぶ重要な道だったと言われており、その帰りには江戸市民の人糞、いわゆる肥料を持ち帰ったことから“肥やし街道”とも呼ばれ、江戸のリサイクル社会を支えた道でもありました。

大田区にある「洗足池(せんぞくいけ)」は、鎌倉時代の僧・日蓮が足を洗ったといわれる歴史ある池。
「昔は“洗う足”ではなく、収穫が多い場所ということで“千の束”から“千束池”になったんじゃないかと言われている。少なくとも家康がここを通って江戸に入っていた時は、この池はすでにあった」と道マニアは言います。
田園調布に入ると、中原街道は2つの道筋に分かれます。多摩川の近くで地元の方に話を聞くと、かつての多摩川には幅の狭い橋が架かっており、交通量も多く、子どもだけで渡るのは危険だったとのこと。
その後、道幅が拡幅された「丸子橋」の完成に伴い、この橋を通る道筋が新たに現中原街道として整備されました。

船で多摩川を渡り、平塚市・中原で東海道へと合流する中原街道。終点の中原では、将軍に献上されるほどの名品「成瀬酢(なるせす)」が生産され、その運搬のため「御酢(おす)街道」とも呼ばれたこの道は、地域の産業や暮らしを支え、街の歴史を紡いできました。
CBCテレビ「道との遭遇」2025年11月4日(火)午後11時56分放送より




