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20年ぶりの歓喜に沸いた中日球場そしてドラゴンズファン至福の瞬間(02)

20年ぶりの歓喜に沸いた中日球場そしてドラゴンズファン至福の瞬間(02)

ドラゴンズファンとして、この日のことは一生忘れないと断言できる。
1974年(昭和49年)10月12日土曜日。その夜、名古屋市中川区にある中日球場(現ナゴヤ球場)では、ドラゴンズ与那嶺要監督が胴上げによって宙に待った。球場にいたファンも、私のようにテレビの前にいたファンも歓喜に沸いた。中日ドラゴンズ20年ぶりのセントラルリーグ優勝である。それも・・・常勝・読売ジャイアンツの10連覇を阻止しての優勝だから、その価値は本当に重いと言える。

待望のマジックナンバー点灯

与那嶺監督の3年目を迎えていた。圧倒的な強さを誇ってきた川上哲治監督率いるジャイアンツも、前年は阪神タイガースをギリギリでかわしての際どい優勝で、その力にも翳りが見られてきていた。
一方、わがドラゴンズは、新外国人のトーマス・マーチン選手が4月にいきなり1試合3ホームランという花火を打ち上げるなど、「今年こそは」と期待が高まるシーズンだった。名古屋市立八幡中学校3年生だった私たちは、5月に東京・箱根コースに修学旅行に行ったが、帰路、東海道新幹線の車窓から見た中日球場で行われていたデーゲームに車内から拍手と声援を送った。もちろん届くはずはないが。
そんな熱い盛り上がりを見せていたシーズン。9月28日のジャイアンツ戦に勝ち、初めての優勝マジック12が点灯した。しかし、このマジックはその後も点いたり消えたりした。この時、中学生なりに「マジックナンバーとは?」を理解することができた。
20年ぶりの優勝へ産みの苦しみは続いた。

迫りくる巨人の脅威

1ゲームでも負けると後楽園球場でジャイアンツとの最終決戦となる。
王貞治・長嶋茂雄というスーパースターを擁する宿敵は、こうした局面で無類の強さを発揮する。最終決戦にもつれこませてはいけない。その思いはファン以上に選手たちも持っていた。
10月11日金曜日、神宮球場でのヤクルト・スワローズ戦を高木守道選手の同点ヒットとリリーフ星野仙一投手の力投でしのぎ、ドラゴンズは優勝マジック2として、地元・名古屋へ帰ってきた。そして大洋ホエールズとダブルヘッターとなったのだ。
当時はダブルヘッターの試合数も多かった時代だ。この神宮での試合を引き分けたことは本当に大きかった。勉強机でラジオ実況中継を聴きながら、引き分けてマジックが減った瞬間、思わずガッツポーズを取った。

名古屋まつり当日の胴上げへ

10月12日、くしくもこの日は、名古屋まつり。当時は学校が週休2日ではなく、土曜日も午前中半日は授業があったのだが、名古屋まつりの日だけは学校も全日お休み。私は当時、中学3年生で卓球部に所属していたが、普段は日曜日も練習をしていたクラブ活動も幸いお休み。このため、午後からのダブルヘッターをしっかりテレビで観戦することができた。
第1試合は、マーチン選手、そして島谷金二選手のホームランと先発・松本幸行投手の快投によって9対2での圧勝。いよいよマジック1となった。

快刀乱麻の左腕

松本投手は、文字通り“ちぎっては投げちぎっては投げ”の小気味いいピッチング、ゲームの早さで知られていた。
この年の5月18日は甲子園球場で阪神戦があり、NHKが20時から21時30分までテレビ中継を予定していたが、なんと放送開始まもない20時10分に松本の完封でゲームセットという驚く結末があったほどだった。大幅に時間が余ったNHKは緊急措置として、『刑事コロンボ』というアメリカのドラマを放送し、私も野球中継の流れで観たのだが、その面白さに魅了された。多くの視聴者も同じだったと思う。松本投手の快刀乱麻は、『刑事コロンボ』という超人気ドラマを世に送り出した一助となった。

江藤慎一・古巣への意地

そんな盛り上がりの中、この優勝がかかった2連戦でドラゴンズファンとして心に引っかかったのは、ホエールズのレフトを守っていた江藤慎一選手のことだった。
トレードでドラゴンズを離れたものの、かつてはドラゴンズの主砲。古巣が念願の優勝を手にしようとしている時、相手チームの外野を守っていることをどう受け止めているのだろうか。そんな私の思いを知ってか知らずか、江藤選手は第1試合の9回表に2ランホームランを打ち、ドラゴンズファンの前で、強烈な存在感を示したのだった。

そして訪れた歓喜の瞬間!

ベンチの前では前夜リリーフだった背番号20番がウォーミングアップを始めた。
中継アナウンサーが「おっ星野でしょうか?先発は」と興奮気味に紹介する。テレビの前で私は、いよいよ待ちに待ったリーグ優勝が近づきつつあることを感じていた。
第2試合は、終始ドラゴンズが押しまくった。2回には先発の星野仙一投手が、自ら二塁打を打って先制。2番に入った島谷選手が前のゲームに続きホームランを打てば、3番の井上弘昭選手が連続打者ホームランで続き、大洋ホエールズを圧倒した試合展開だった。
「ドラゴンズは今夜優勝する」と確信した私は、ラジオカセット(ラジカセ)を用意して、実況中継の同時録音を始めた。CBCラジオを選択した。解説はドラゴンズで監督もつとめた杉浦清さん、実況は後藤紀夫アナウンサー。
しかしテープを回しっぱなしにするとカセットの本数も多く必要なことから、ドラゴンズの攻撃のみを録音していった。テレビで試合を見ながら、ラジオ中継を選択録音するというスリリングで興奮の時間を過ごした。このカセットテープは今も大切に手元に置いている。
そして・・・時刻は20時9分。山下大輔選手が打った3塁ライナーを島谷選手がジャンピングキャッチ。試合終了。その瞬間、プレイボールからマウンドに立ち続けていた星野投手は帽子を叩きつけて喜ぶ。ホームから一直線に駆け寄った捕手の木俣達彦選手と抱き合う。
さあ胴上げかという次の場面、中日球場の観客席からは次から次へとファンがグランドに降り、選手の輪をめがけて殺到した。大混乱である。与那嶺監督の胴上げは、選手によってなのか観客によってなのか、どちらにされているかわからない状況で行われた。
ところどころでファンと選手が抱き合う。4番打者マーチン選手がファンに帽子を奪われ、普段は隠したがっていた“光る頭”を晒している。まさに地元ファンにとっての「おらがドラゴンズ」が結実した夜だった。
ラジオ中継では後藤アナウンサーと杉浦さんが、「おめでとうございます!」と言い合って喜んでいる。生放送中である。名古屋の街は沸きに沸いた。

主役はミスタージャイアンツ!?

夜のスポーツニュースも翌日のスポーツ紙も、主役は「ドラゴンズ20年ぶりの優勝」かと思ったが、実はそうではなかった。
ドラゴンズの優勝によって、10連覇の夢を絶たれたジャイアンツは、その夜、背番号3“ミスタージャイアンツ”長嶋茂雄選手の現役引退を発表したのだ。国民的英雄の引退は、スポーツニュースのトップになり、スポーツ紙の一面を飾った。ドラゴンズは20年ぶりにめぐりきた主役の座を奪われてしまったのである。
もっとも中日スポーツだけは別である。「やった中日、一丸の優勝」という大見出しは白黒紙面だった当時では珍しい赤い字であった。

名古屋の町が燃えた秋

その秋、名古屋の町には、CBCラジオ『ばつぐんジョッキー』パーソナリティ板東英二さんが歌う『燃えよドラゴンズ!』が流れ続けた。くしくも映画では、ブルースリー主演の『燃えよドラゴン』が大人気、そんなこともあってこの応援歌のタイトルも多くのファンに親しまれた。
今でもナゴヤドームでラッキーセブン7回裏のドラゴンズ攻撃前にはこの歌が流れる。今は歌詞が変更されているが、当時は「にくいジャイアンツの息の根をとめて優勝だ」という過激なフレーズがあった。ドラゴンズファンの気概が象徴されていたと思う。

私自身にとっては、この歌の思い出と共に、1974年の優勝以上に嬉しい優勝は、今後も決してないと確信している。(1974年)

【CBCテレビ論説室長・北辻利寿】

※ドラゴンズファンの立場で半世紀の球団史を書いた本『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』(ゆいぽおと刊・2016年)を加筆修正して掲載いたします。

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