花粉症の季節に欠かせない「目薬」日本での開発テーマは究極の“差し心地”

花粉症の季節に欠かせない「目薬」日本での開発テーマは究極の“差し心地”

「目薬」の歴史は、古代エジプトにさかのぼる。当時は、目の病を治すというよりも“目に虫が入ってこないよう”薬を塗っていたことが起源と言われている。

日本では室町時代。貝殻の片方に軟膏のような薬を入れて、もう片方の貝殻の上でそれを水などで薄めて、目につけていたという話が残っている。江戸時代には、現在と同じように硫酸亜鉛の溶液が“目に差す薬”として使われた。本格的な「目薬」すなわち「点眼薬」が登場したのは明治時代。明治維新を迎えて、外国から日本にやって来た医師たちが驚いたのは、日本人に目の病気が多いことだった。感染症のトラホームによって、失明する人も後を絶たなかった。そこで本格的な国産の「目薬」を作ろうという気運が盛り上がる。

CBCテレビ:画像『写真AC』より「眼鏡」

舞台となったのは大阪の町だった。風邪薬を扱っていた「田口参天堂」が、炎症をとめる硫化亜鉛や、かゆみを抑える成分などを調合して、溶液を作った。最初は綿棒に沁み込ませて目に垂らしていた。しかしそれも不便、そこでスポイトに注目し、瓶に入った溶液をスポイトで吸い取って目に差すという方法をとり入れた。これによって、目薬は格段に使いやすくなった。1899年(明治32年)に発売された最初の目薬の商品名は「大學目薬」。田口参天堂は、現在「参天製薬」と社名を変えたが、「大学目薬」という名前は今でも大切なブランド。めがねと髭の博士のイラストは時代を越えて健在である。

CBCテレビ:画像『写真AC』より「薬屋看板」

その10年後、同じ大阪の町で、もうひとつの薬屋が動いた。「信天堂山田安民薬房」という商店で胃腸薬などを扱っていた。瓶の中の溶液自体に変わりはないが、その差し方に大きな工夫をした。指ほどの小さなガラス瓶、そこに直接ゴム状の挿し口を装着した。これによって片手でも簡単に適量の薬を垂らすことができた。目薬を処方した日本人医師の恩師にドイツの眼科医がいた。アウグスト・フォン・ロートムンドさん。1909年(明治42年)に発売された目薬には、その眼科医の名前から「ロート目薬」と名前をつけられた。やがて「信天堂山田安民薬房」は「ロート製薬」と社名を替える。

CBCテレビ:画像『写真AC』より「目薬」

太平洋戦争は国産の「目薬」にも影を落とした。瓶に付けられていたゴムが、軍事物資として接収されてしまい、それまでのような目薬は製造できなくなってしまった。戦後、
「参天製薬」(当時「参天堂製薬」)は、ガラス瓶に替わるプラスチック容器の目薬を発売した。容器のお腹部分を軽くへこますだけで、簡単に目薬を差せるようになった。持ち運びやすい携帯性、そして薬の残量がひと目で分かる透明性、これによって「目薬」は、より日常生活に入り込み、広く一般的な商品になっていく。

CBCテレビ:画像『写真AC』より「眼鏡・目薬」

もともとは目の病気を治す目的で歩み始めた「目薬」。コンタクトレンズの普及と共に目の乾きを覚える人が増え、その乾燥対策。花粉症の広がりと共に、その季節には欠かせないアレルギー対策。そして、パソコンやスマホなど目を使う人のための疲れ目対策。その役割も増え続け、「目薬」は生活に欠かせない必需品に成長したが、そこにはより心地よい“差し心地”をとことん追求したニッポンならではの開発力があった。「目薬はじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが“ぱっちりと見通しよく”刻まれている。
          
【東西南北論説風(331)  by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】

※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。

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