家康の恐ろしき野望・大坂城西の丸にもうひとつの「天守閣」があった

CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。10月3日の放送では織田信長、加藤清正、陣笠隊の足軽・太助の3名が出演し、大坂城西の丸に徳川家康が入った件を取り上げました。
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「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある話題の中で取り上げたのは、1599年9月27日に徳川家康が大坂城西の丸に入った件について。
1598年9月18日に豊臣秀吉が死去、その跡取りとして遺されたのが嫡男・秀頼でした。
家康が西の丸を訪れたのは、秀吉の死去から1年ほど後のこと。
信長「秀頼が大坂城におって、家康が『菊の節句のお祝いだ』という口実で江戸から大坂に参ると。その時に西の丸に入ったんじゃな。名古屋城にも西の丸はあるな、西側の区画。大坂城西の丸には、秀吉の正室・おね(北政所)住んでおったが、明け渡して『家康、ここ(西の丸)にお泊りなさい』と」
当時のお祝い事は1日で終わらず、数日かけて行われるのが一般的だったと信長。何日か滞在するために大坂城西の丸に入ったのがこの日というわけです。
ずっと居座って建てたもの
しかし、この滞在は数日では終わりませんでした。家康はずっと居座ることになったのです。
信長「これを機に、秀吉の正室・おねは京都の光台寺に移り住んでしまって、戻ってこなかったと。それでそのまま西の丸に住み続けてな。
住み続けるだけでなく、なんとこの数か月後に家康は、既に大坂城に天守閣という城の中心部があったにも関わらず、西の丸に家康用の天守閣を作った」
天守閣は通常、城の中心部に建てられることからも「権威の象徴」として見なされます。
この時点では次の天下人は嫡男・秀頼であるにもかかわらず、西の丸に天守閣を建築することは、権威が2つという事態になりかねないものでした。
この出来事を見た秀吉(秀頼)の家臣たちは「家康はちょっとやり過ぎじゃない?」と大騒ぎに。
信長「これはあまり世に知られておらんことじゃろ?この1年後に、関ヶ原の戦いが起こるというわけじゃ」
その後の歴史は関ヶ原へ
関ヶ原の戦いの契機となったのは、やはり前田利家の死去。利家は徳川派と反徳川派を取り持つことができる希少な実力者でした。
その後に西軍になる反徳川派の石田三成襲撃事件が1599年3月に起こり、その後も直江状の事件など、関ヶ原に至るまでには、この西の丸入り以外にも双方の駆け引きや小さな衝突がいくつも積み重なっていたのです。
家康が1600年に大坂城西の丸に築いた4層の天守閣は、関ヶ原の戦い後に家康が伏見城へ移ったことで主を失いました。
その後、1614年からの大坂の陣(冬の陣・夏の陣)の際に、豊臣方に対する攻防や城内の再編・軍事的な都合に伴い、取り壊されたとされています。
西の丸の天守があったとされる場所に石垣や明確な遺構は残されておらず、位置についても諸説あります。
現在の西の丸は「西の丸庭園」として整備されており、天守閣の建物自体は存在しませんが、本丸の天守閣を美しく見上げる絶好の歴史スポットとして多くの観光客に親しまれています。
現在は残っていない幻の「西の丸に築かれた天守閣」ですが、当時これを建てようとした家康の思惑などを考えると、背筋が凍るような出来事だったのかもしれません。
(葉月智世)
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