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もともと何の建物?広島・原爆ドームが爆心160メートルで残った理由

もともと何の建物?広島・原爆ドームが爆心160メートルで残った理由

広島に原爆が投下されてから81年。その象徴的な建物である原爆ドームが世界文化遺産に登録されてから、今年で30年の節目です。8月6日放送の『CBCラジオ #プラス!』では、ジャーナリストの北辻利寿さんに、原爆ドームの被爆前の姿と保存に至る歩みを伺いました。

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元は物産品の展示館

旅行で原爆ドームを目にしたことがある人は多いはずです。宮部和裕アナウンサーも、今年3月末に行なわれた中日ドラゴンズの開幕戦の中継で広島を訪れています。

意外に知られていませんが、原爆ドームはもともと産業用の物産品を陳列する展示館でした。

正式名称は「広島県物産陳列館」で、大正4年(1915年)4月に完成しています。原爆が投下されたのは、建物ができてからちょうど30年後のことでした。

設計したのは、チェコの建築家ヤン・レツルです。レツルは明治時代に来日し、横浜の設計事務所で働いていました。懇意にしていた宮城県の知事が広島県の知事に就任したことから、のちに原爆ドームとなる広島県物産陳列館の設計を担当することになったのです。

建物は全体が3階建て。一部に鉄骨を使ったレンガ造りで、正面の中央部分だけが5階建ての階段室になっており、その上に楕円形のドームが載せられていました。

川面に映える名所

広島市のホームページによると、当時の市内は木造2階建ての建物ばかりで、こうした大胆なヨーロッパ風のデザインは珍しいものでした。

「川面に映える姿の美しさから、広島の名所のひとつだった」と書かれた記録も残っています。

館内は1階が事務室、2階と3階が陳列室という造りでした。広島県内の物産品のほか、全国各地から集められた観光に関する品などが並んでいました。

イベント会場としても使われ、博物館や美術館などの文化振興の役割も担うなど、戦争が始まる前から、地元の人々に親しまれてきた建物だったのです。

爆心地から160メートル

1945年(昭和20年)8月6日、広島に原子爆弾が投下されました。
爆心地は、原爆ドームからわずか160メートル。爆撃の目標とされたT字型の橋(相生橋)のすぐそばでした。
中にいた職員は全員が亡くなっています。

ただし、ひとつだけ奇跡的なことがありました。距離が近かったため、原爆の爆風は横からではなく、真上から垂直に当たったのです。そのため、すべてが吹き飛ばされることはなく、鉄骨や壁、骨組みが残りました。

それが、いま私たちが目にしている原爆ドームの姿なのです。

残すか、取り壊すか

原爆ドームが世界遺産に登録されたのは、いまから30年前のことです。

当時は2つの意見がありました。ひとつは、核兵器の恐ろしさを伝えるモニュメントとして残すべきだというもの。もうひとつは、危険な残骸であり悲しい記憶なので取り壊すべきだというものです。

広島県から広島市にドームの建物が譲り渡されたのち、市は保存に踏み切ります。これを残すことが、被爆者や全広島市民、そして平和を願う世界各国のすべての人々の望みである、という判断でした。

そして1996年12月、メキシコで開催された世界遺産委員会で、原爆ドームの世界文化遺産への登録が決まります。核兵器の廃絶と平和の大切さを世界に発信するモニュメントとして、残されることになったのです。

式典の朝に思うこと

登録から30年が経ったいまも、課題は残ります。地震などによる崩落の可能性もあり、広島市は後世にどう残すかに取り組んでいます。

北辻「これを残す意味っていうのは、核兵器廃絶ですよね。そして平和の願いです。それを改めて思う朝であってほしいなと思います」

宮部は広島出張の朝、ジョギングの途中で原爆ドームを間近からじっくりと見たところ、内側から精巧に補強されている様子が見て取れたそうです。

宮部「あそこがありのままの姿で、そしてずっと残していこうという願いが、そういったところにも感じられました」
(minto)
 

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