加賀前田家が存続できた理由は「鼻毛」にあった!

CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。10月18日の放送では、前田利家、前田慶次、陣笠隊の足軽・なつの3名が出演し、前田家に関わる出来事を取り上げました。
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この記事をradiko(ラジコ)で聴く今週の出来事は、前田利常の死去
「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。
話題は「笠野鳥越城の攻撃」と「前田利常の死去」に。
なつ「1584年10月14日、前田利家様が笠野鳥越城を攻撃なされました、あとは1658年10月12日に前田利常様が没しましたでござりまする」
笠野鳥越城の攻撃とは、前田利家が関連している戦い。
利家は、織田信長が本能寺の変で斃れた後、織田家の後継者の座を巡り対立した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と柴田勝家が激突した賤ヶ岳の戦いで、勝家ではなく秀吉に与します。
その後、加賀を領有した利家は勢力拡大へと邁進していきました。
仲間がいつ敵になるか分からなかった時代
しかし、利家の勢力拡大を阻む者がありました。それが越中(現在の富山県)を治めていた佐々成政です。
1584年(天正12年)、成政は能登の末森城(現在の石川県宝達志水町)を攻撃。このとき、前田軍は末森城を守り抜き、佐々軍を撃退しましたが。
しかし、末森城が落城したという誤報が流れ、津幡町にあった笠野鳥越城の兵は城を放棄してしまいます。その結果、佐々軍が労せずして城を手に入れてしまったのです。
前田慶次「簡単に言うと、叔父貴(利家)と同輩、一緒に織田信長様の下で戦ってきた仲間同士の戦いなんじゃ」
小牧長久手の戦いの延長線上で奪われた笠野鳥越城ですが、戦国時代は「昨日の友は今日の敵」となることも多かった時代だったのです。
前田利家の息子とはどんな人物?
利家が声を大にして触れたいと取り上げたのが、1658年(万治元年)の「前田利常の死去」。
利常は利家の四男で、利家の死後に前田家を継いだ加賀藩2代目藩主です。
当時は既に徳川家の江戸幕府が開かれており、1599年(慶長4年)に利家を失った前田家の立場は、外様大名でした。
関ヶ原の戦い以降に徳川家に従った大名で、徳川将軍家からすると譜代・身内に比べて信用ならない存在ということになります。
そのため江戸の近くや、尾張などの重要な地から避けられ、遠方に領国を与えられるケースが多く、何かあれば取り潰される立場でもありました。
利家「家を潰されないようにうまく徳川家に取り入って、嫌われぬよう立ち回った。そのバランス感覚と言えばいいのかな、これによって前田家が260年以上続く家として、皆の記憶に残ることとなった」
2代目藩主となった利常は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、徳川家の指示に従わず戦を仕掛けて真田幸村に惨敗するなど、失態を重ねながらも、取り潰しにならないよう鼻毛を伸ばして「うつけ者(大馬鹿者)」を演じたと言われています。
要は「うつけ者が治める家なら勝手に自滅するだろう」と思わせ、厳しい監視をかいくぐったのです。
同じく外様だった伊達政宗も、江戸の仙台屋敷に将軍を招待して、得意の料理で取り入るなど、外様大名たちは苦労したと言われています。
現在も前田家が続いているのは、利常の努力があったこそです。
(葉月智世)
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