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野武士野球に狂喜乱舞!近藤ドラゴンズ劇的なリーグ優勝(11)

野武士野球に狂喜乱舞!近藤ドラゴンズ劇的なリーグ優勝(11)

大学を卒業して就職したのは地元の放送局・中部日本放送(CBC)だった。
テレビそしてラジオ共にドラゴンズ戦の中継を担当する“ドラゴンズ応援放送局”であり、ナゴヤ球場でホームランを打つとバックスクリーンに大きく「ホームラン」という文字と共に「CBCテレビ」というネオンサインが浮かぶ。そしてかつて歌詞を応募した『ガッツだ!!ドラゴンズ』の企画を進めた局でもある。ジャーナリズムの世界に飛び込みたいという小さい頃からの夢がかなったと同時に、中日ドラゴンズに大きく一歩近づいたファンとしての、純な喜びにも浸った1982年(昭和57年)だった。

野武士野球に興奮の日々

2年目を迎えた近藤貞雄ドラゴンズは「野武士野球」をスローガンに戦っていた。
前の年、新監督1年目は5位と決していい成績ではなかったが、後楽園球場で勃発した宇野勝内野手がボールを取り損ねて頭に当てるという有名な“ヘディング事件”はじめ何だかワクワクさせられる試合ぶりだった。投手陣もエース小松辰雄投手が剛球を武器にチームを引っ張った。前年の1981年(昭和56年)9月21日、私は読売ジャイアンツの連続試合得点を174試合で止めた小松投手の見事なピッチングをナゴヤ球場の観客席で見守った。その入場チケットはもちろん日記にはさんで保存してある。
(本当ならば、巨人の連続試合得点をストップしたのは星野仙一投手だったかもしれない。その試合は、宇野勝内野手がショートフライの打球を取り損ね頭に当てるという有名な“ヘディング事件”があったゲーム。あの試合、星野投手は気合の入った良きピッチングをしていたため、あれさえなければ158試合で記録は止まっていたかもしれないと今でも思う)

2年目の近藤ドラゴンズ

CBCに入社後、5月には念願かなって報道局テレビニュース部に配属された。
新人は土日勤務からスタートする。そして1年目はカメラマンだった。テレビ報道に携わるものは映像を理解できなければダメ、という部の方針だった。
カメラマンとして勤務していた5月23日の日曜日。ドラゴンズは仙台で横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)と対戦していた。9対6でドラゴンズ3点リード、9回2死走者なし。
当時は我々テレビニュース部の横にスポーツ部があり、試合速報は逐一入っていた。
勝利を確信した私だったが、抑えの鈴木孝政投手が打たれ始め、最後は長崎啓二選手にサヨナラ逆転満塁ホームランをあびるというとんでもない結末。この試合を境に今シーズンもダメだろうという確信したが、その不安もまた破られることになる。野武士野球はそんなにひ弱ではなかった。

歴史に残るスター選手たち

それまでの戦力に加え、まずキャッチャーの中尾孝義選手。社会人のプリンスホテルから入団した彼は、それまでの捕手のイメージを一新するような華奢な身体でスピード感あふれるプレイをして、木俣達彦選手から正捕手の座を奪った。
また地元出身で投手から外野手にコンバートされた平野謙選手は、俊足と好守備を生かしてこれもレギュラーを奪取、この年に年間の犠打記録を更新してしまう大活躍だった。

印象に残るオーダーは、
1.田尾安志    ライト
2.平野 謙    センター
3.ケン・モッカ  サード
4.谷沢健一    ファースト
5、大島康徳    レフト
6.宇野 勝    ショート
7.中尾孝義    キャッチャー
8.上川誠二    セカンド

30年以上たった現在、この顔ぶれを見ると、やはり「スゴいなあ」と思う。「野武士野球」の選手(武士?)たちは魅力的だった。投手も16勝あげた都裕次郎投手を筆頭し、鈴木孝政、郭源治、三沢淳、小松辰雄ら各投手がローテーションを守り、牛島和彦投手がリリーフエースとして大活躍だった。

江川投手を攻略した興奮ゲーム

秋が深まりつつあった9月28日、ナゴヤ球場での読売ジャイアンツ戦。この試合はファンの間で語り継がれる名試合である。もちろんドラゴンズファンにとってのことだが・・・。
この日、私は宿直勤務だった。当時、CBC報道の宿直は、デスクが本社、若手が愛知県警記者クラブと分かれての2人体制だった。何か事件事故があれば、県警本部内に泊まっている若手の方が原稿を書き、取材カメラを持って現場取材もする。
入社1年目の私は記者クラブのCBCボックス(部屋)でナイター中継を見ていた。
先発は江川卓投手でジャイアンツが序盤から大幅リード。そんな時に、新幹線の線路で男性が飛び降りる騒ぎが起きて、現場取材に向かった。
当時の日記には「巨人に大量リードされ悔いなく現場へ」と不謹慎なことが書かれている。
取材を終えて、本社にテープを届けると、4点リードされての9回裏、すごいことが起き始めた。東京六大学時代から「江川キラー」と呼ばれてきた明治大学出身・豊田誠祐選手のヒットから逆転劇の幕は開いた。谷沢、モッカの連続ヒットでノーアウト満塁になり、大島、宇野、中尾が続く。なんと6対6の同点になったのである。
県警記者クラブに戻ろうとしたら、デスクに「お前がここにいると縁起がいい。このまま本社でラジオ中継を聴いていろ」と引き止められた。
そして、延長10回、江川をマウンドから引きおろし、続く角三男投手から、大島選手がサヨナラヒット。ドラゴンズに逆マジック「12」が点灯したのだった。

ドラマチックな優勝の夜

これを契機に、野武士軍団は一気にペナントレースを走る。
そして10月18日。マジック1となったドラゴンズはシーズン最終戦となる130試合目を横浜球場で迎えた。この日も私は愛知県警本部内で宿直だった。
ここまで6週連続で、宿直の日にドラゴンズが勝っていた。そのジンクスを信じて、宿直勤務に入ったが、内心「もし事件事故で取材に出ることになったら、胴上げの瞬間を見ることができないのでは」とハラハラしていた。しかし神様は、そんなドラゴンズファンの願いを聞き届けて下さり、取材出動のない平和な夜だった。私はひとり、記者クラブの部屋で近藤監督の胴上げを見守った。
優勝した後、一緒に宿直していた県警広報担当が、お祝いを言いに来てくれた。私のドラゴンズ好きは、愛知県警本部内でもすっかり有名だった。

田尾選手5打席連続敬遠への怒り

この試合は優勝と共に、首位打者争いがかかっていた。打率1位は横浜大洋ホエールズの長崎啓二選手。シーズンはじめに仙台でドラゴンズを奈落の下に突き落とした打者である。そして2位が我らの田尾安志選手。長崎3割5分1厘、田尾3割5分0厘1毛。その差は9毛差。仮に田尾選手が1本ヒットを打てば逆転する僅差だった。
その試合、横浜は長崎選手をベンチに下げ、田尾選手を毎打席敬遠するという策に出た。田尾選手の打席は5打席。最後の打席で、3ボールからの敬遠球を2球続けて空振りした田尾選手。勝負してくれないことへの無言の抗議だった。その姿にドラゴンズファンはしびれ、対戦相手への怒りを掻き立てられた。
もっとも、勝敗の行方にとって、この5打席連続敬遠の影響は大きかった。黙っていても5回、ランナーが塁に出るのである。優勝に向けての貢献度は大だった。

翌朝、本社から出動指令が下った。ドラゴンズ優勝を受けて、中日スポーツが飛ぶように売れている。駅の売店でその風景を取材することだった。こんな楽しい取材はない。待ってました!とばかり、8年ぶりセ・リーグ優勝の余韻に浸る朝の名古屋の町へ飛び出した。(1982年)

【CBCテレビ論説室長・北辻利寿】
※ドラゴンズファンの立場で半世紀の球団史を書いた本『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』(ゆいぽおと刊・2016年)を加筆修正して掲載いたします。

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