徳川家康にとって不名誉な大敗「三方ヶ原の戦い」が信長にも重要だった理由
CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)。日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。12月27日放送には織田信長・加藤清正・陣笠隊の足軽・踏舞の3名が出演、「この日何の日?」コーナーでは三方ヶ原の戦いについて取り上げました。
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「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。
話題は、1572年12月22日に徳川家康が大敗した三方ヶ原の戦いについて。
織田信長「武田信玄が甲斐(山梨県)から軍勢を率いて西へと儂を討ち果たして京へ上洛しようという動きを見せた。というわけで、通り道となる三河を治めておった徳川家康とも当然戦になるということで、家康は負けて大敗して浜松城へ逃げたんじゃけども」
この戦いで大敗した家康は「悔しさを二度と忘れない」との決意から、顔を顰(しか)め憔悴したような表情に描かれた肖像画「顰像(しかみぞう)」を遺しました。現在は名古屋市の徳川美術館に保存されています。
お漏らしは当たり前
もうひとつ、この戦いでよく言われるのが「家康は厠に間に合わず、お漏らしして退却した」という言い伝え。
現代であれば大人がお漏らしとなれば大変な恥ですが、「当時は珍しいことでもなかった」と信長が擁護します。
信長「これはあいつ(家康)の名誉のために言っておくが、我らの時代は戦となると厠に行くというのはなかなか難しかった。だからみんな、漏らしておったというわけじゃ」
悔しい思いをした家康が、近代では「お漏らしをした」とさらに付け加えられて広まっているのではないかといいます。
平時はもちろん厠に行きますが、戦場は命を賭けて戦う最前線。「ちょっと腹具合が悪いから」と、今のように厠どころではなかったというのが実情だったようです。
信長と三方ヶ原の戦いの関係
三方ヶ原の戦いと、信長はどう関係していたのかというと複雑な事情がありました。
信長「儂と武田氏といえば長篠の戦い、鉄砲三千で三段打ちで勝ったというのが有名で、武田とはずっと戦っていたという印象があるかもしれんが、実はこの1年前まで儂と武田は同盟を組んでおった」
信長の養女を武田信玄の息子・勝頼に嫁がせて婚姻関係を結び、同盟関係にありました。その養女が亡くなったことで同盟が薄まりそうになる中、逆に信玄の娘・松姫を嫡男の信忠の嫁にする約束をして同盟を保っていたのです。
しかし、比叡山の焼き討ちで僧侶側に武田が味方したため関係が悪化。同盟は破綻して戦へとつながっていったのでした。もちろん、この状況には他の事象も複雑に絡み合っており、この説明だけでは完結しません。
三方ヶ原の戦いは、織田信長と武田信玄の対立が表面化した出来事として位置づけられます。信長は将軍・足利義昭と対立し、北近江の浅井氏・越前の朝倉氏や本願寺などによる信長包囲網に直面していました。
そこに信玄が加わり、将軍擁立を名目として西上作戦を開始。
三方ヶ原で信玄が信長の同盟者である家康を破ったのは、信長包囲網を軍事的に完成させる狙いがあったためです。
しかし、その直後に信玄が病死したことで包囲網は崩れ、信長は最大の危機を免れることになりました。
当時は婚姻で同盟を強固にすることは一般的。信長自身も、妻は美濃の斉藤道三の娘・濃姫です。信長は北近江の浅井長政に妹・お市の方を嫁がせたり、徳川家康の嫡男に娘・徳姫を嫁がせていました。戦わずして効率よく関係を結ぶ手段だったのです。
何にせよ、この三方ヶ原の戦いは、信長にとっても無視できない重要な出来事だったことが伝わってきました。
(葉月智世)
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