「曳馬城」から改名した浜松城。徳川家康にとって縁起がよかった理由
CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)。日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。12月20日放送では、徳川家康、前田慶次、陣笠隊の足軽・なつの3名が出演。「この日何の日?」コーナーでは徳川家康の居城、浜松城ついて取り上げました。
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この記事をradiko(ラジコ)で聴くこの日何の日?「曳馬城に入った日」
「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。
話題は1568年12月18日に徳川家康が「曳馬城(ひくまじょう)に入った」出来事について。
前田慶次「現世の者は曳馬という言葉が聞き慣れんかもしれぬな。現在の浜松城じゃな、これは。浜松城以前の名前が曳馬城という名前であって、現世では引馬とも書いているようじゃ」
馬を降りて引っぱって行くという言葉が、家康にとっては「武士たるもの、馬から降りるというのは縁起が悪い。撤退するかのようではないか」と言って縁起のいい「浜松城」へと名前を変えたという経緯があるようです。
その結果、天下を取って江戸幕府の初代征夷大将軍になったこともあって「出世城」とも呼ばれ、聖地となりました。
実際、家康亡き後に浜松城に入った大名たちの多くが出世したことも、由来となっているのです。
縁起がいい理由は石垣にもあり
浜松城は、家康が長く拠点としたことでも知られています。
この城にいた時期には武田信玄に大敗した三方ヶ原の戦いや、その前後にあった武田氏との攻防など、家康が多くの敗北と経験を重ねた期間で、家康本人にとっても「人生で最も苦しかった時代」であり、その後の出世につながったとも言えます。
徳川家康「そうじゃな、17年ほどいたかの」
慶次「長い期間じゃな。儂は家康様が駿府城や江戸城も好きなのではと思っておるが」
浜松城は、石垣の積み方が古いにもかかわらず数百年の耐久性を持つ珍しい特徴も持っています。この石垣の積み方で、ここまでの長期間耐久したのは非常に珍しいそうです。
ゆえに落城しない、崩れないという意味でも、縁起がいい城ということになります。
初詣でならぬ初登城の勧め
もうすぐ新年ですが、初詣でならぬ「初登城」で家康様のご利益にあやかってみてもいいのでは?と慶次。
慶次「ひょっとしたら、歴史に名を残すことができるかもしれんぞ?これ以上の詳しい話を聴きたいものは名古屋城までぜひ参れ」
この浜松城時代を通じて形成されたのが、徳川家康の忍耐と現実主義を重んじる人物像でもあります。
武田信玄との三方ヶ原の戦いでは、脱糞するほど命からがら逃げ帰るなどの敗北の経験などを経て、家康は理想や勢いに頼るのではなく、失敗を直視し、状況を冷静に分析する姿勢を身につけていきました。
他の戦国大名と違って無理な領土拡張を避け、同盟関係や外交を重視しながら生き残る道を選んだ点は、特筆すべき特徴です。
また、長期的な視点で人材を育成し、組織としての家臣団を整えたことも大きな財産となりました。浜松城で味わった苦労や戦いなどの経験は、短期的な勝利よりも持続的な安定を優先する家康の政治姿勢を育み、最終的に天下統一と江戸幕府の礎へとつながっていったといえるのではないでしょうか。
その後も、家康が関わった「1609年12月18日にスペイン王国に貿易保護の約束をしたこと」など、主役の扱い。慶次は「儂の関わったものは一つもない」とぼやき、家康から「おぬしは説明がうまいからわかりやすく解説せよ」とフォローされる一幕もありました。
(葉月智世)
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