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毛利三兄弟「三本の矢」は史実ではなかった?元就の『三子教訓状』

毛利三兄弟「三本の矢」は史実ではなかった?元就の『三子教訓状』

CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)。日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。11月29日の放送では、織田信長・前田利家・陣笠隊の足軽・太助の3名が出演。「この日何の日?」コーナーでは毛利元就が残した書状について取り上げました。

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毛利元就『三子教訓状』を送る

「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある中、話題は1557年11月25日に毛利元就が『三子教訓状』(三矢教訓状)を送ったことについて。

織田信長「これは1557年ということで、教科書で言うと桶狭間の戦いよりも前の出来事である。三子とは一体なんじゃ」

前田利家「現世の者は聞いたことがあるんじゃないか?三本の矢の教えというものじゃ」

まず「三子」というのは毛利元就の子たち、長男の毛利隆元、次男の吉川元春、三男の小早川隆景の3人を指します。

元就が周防国富田(現・山口県周南市)の勝栄寺で書いた書状で、60歳を越えていた元就が三人の息子たちに(他の子どもたちも含め)一致協力して毛利宗家を末永く盛り立てていくように14条に渡って諭した書状です。現存する書状の長さは約3mに及んでいます。

「三本の矢」の基になった書状

よく知られている「三本の矢の教え」は、晩年の元就が病床に伏していたある日、隆元・元春・隆景の3人を呼び出し、「一本の矢では簡単に折れるが、多数の矢を束ねると容易に折れない。よって、三兄弟が力を合わせて皆がよく心を一つにすれば毛利家が破られることはない」と告げた教えとされています。

ただ、このエピソードが登場するのは後の江戸時代に編纂された『前橋旧蔵聞書』。
一方『三子教訓状』には隆元や元春がその場に登場しません。そのため、このエピソードが三矢の教えの逸話へと変化して伝えられた可能性も考えられます。

利家「この三本の矢の話は、後世の作り話。その作り話の基となったのが『三子教訓状』という書状でござりまする」

有名な逸話の基になった書状ということであったようです。

兄弟仲良くと呼びかけた事情

毛利家の三兄弟(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)はそれぞれ優秀な子息でした。一方で仲がいいとは言い難い一面もありました。

利家「そういった仲が今一つよくない息子たちを見かねた元就殿が『三人仲良くいたそうぞ』と送ったものですな」

内容は「我ら毛利家は小さな家の出の者である故、三人がそれぞれ力を合わせなければ滅びてしまう。だが三人が手を取り合い協力すれば、我が毛利家は長く続くであろう」というのが冒頭。
それ以外にも、「元春と隆景はそれぞれ他家(吉川家・小早川家)を継いでいるが、毛利の二字を疎かにしてはならぬし、毛利を忘れることがあっては、全くもって正しからざることである」等記されています。

信長「当時としては珍しいの。織田家も内乱があって儂も弟(信行)と戦をせねばらなかったし、力がある者が治めればよいというのが当時の理じゃからな」

兄弟間・身内間で跡目争いをすることは、この時代珍しいことではありませんでした。
そんな戦国の世に毛利元就が残したこの書状は、他の項目を見てみると現世の私たちを諭すかのような内容も含まれています。

例えば、元就は「自分は戦で多くの人命を失ってきた。だからお前たち(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)は、できるだけ血を流すことなく治めよ」と人命を大切にすることなどが記されているのです。

兄弟間で争った戦国武将は多数いますが、当時は家臣や一族郎党も巻き込んで派手に争う間に攻め入られることも多かった時代。だからこそ、元就は毛利家の行く末をなんとか守りたくて書いたのかもしれません。
(葉月智世)
 

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