独自の法律を作った村!?滋賀「奥琵琶湖パークウェイ」が開通する前の“隠れ里”菅浦集落の知られざる生活とは
ミキの昴生と亜生がMCを務める、全国の道に特化したバラエティ番組『道との遭遇』。今回は、全国100万キロ以上の道を巡ってきた道マニアの鹿取茂雄さんが、滋賀県の「奥琵琶湖パークウェイ」にまつわる“集落の歴史”を紐解きます。
「奥琵琶湖パークウェイ」が開通するまで孤立していた集落「菅浦」

鹿取さんと一緒に旅をするのは、俳優・濱津隆之さん。2人は、滋賀県の北に位置する長浜市を訪れます。
(道マニア・鹿取茂雄さん)
「『奥琵琶湖パークウェイ』が開通するまで、道が繋がっていなかった『菅浦(すがうら)』という集落がある」

長浜市を走る「奥琵琶湖パークウェイ」は昭和46(1971)年、有料道路として開通。平成元(1989)年に無料で通行できる県道となり、現在は風光明媚なドライブコースとして親しまれています。

そんな奥琵琶湖パークウェイが開通するまで、交通手段が船しかなかったという集落「菅浦」が存在。1000年以上、険しい山と琵琶湖に挟まれた閉鎖的な環境だったこともあり、非常に珍しい歴史を持つ集落と鹿取さんは言います。

(道マニア・鹿取茂雄さん)
「昔は外部から入る人たちをシャットアウトしていた。住民たちが自分たちの手で法律を作って罪人を罰するといったことが、長年行われていた。道ができる前はどういう暮らしぶりだったのか、菅浦集落の歴史を深掘りしたい」
昔は“隠れ里”と言われ、江戸時代まで独自の法律で集落を統制していたと言われる菅浦。今回は、菅浦の知られざる歴史を紐解きます。
集落の領域と外界を区切っていた!?今も残る「四足門」

2人はさっそく、菅浦集落へ。奥琵琶湖パークウェイの周辺に新しい道路ができたことも影響し、現在は一部区間が一方通行になっているため、菅浦へは湖岸沿いの道路を通って西側から向かいます。

目的地に到着した2人は、琵琶湖沿いの道を歩いて菅浦集落の中へ。すると、鹿取さんが気になる藁ぶき屋根の建造物を発見。

「ここは、菅浦地区の西の入口。この藁ぶき屋根の棟門は『四足門(しそくもん)』といって、集落に来る人たちを厳しくチェックしていた。昔は東西南北の4か所にあったが、今残っているのは西と東の2か所」
中世から明治維新の頃まで集落の四方の入口にあったことから「四足門」と呼ばれ、外部から来る人間を監視していたそう。案内看板には、「集落の領域と外界を区切っていた」と書かれています。
2人はいよいよ集落の内部へ。琵琶湖沿いを歩いていると…

(道マニア・鹿取茂雄さん)
「湖に下りていく階段がある。等間隔であちこちにあるから、家の人たちが船で物を運んだりする時に使っていたかもしれない」

西の四足門から歩くこと15分。集落の端にある東の四足門に到着します。

ここで、聞き込みすることに。菅浦で生まれ育ったという住民に話を聞くと、道路が無い時代は、住民が個人で所有する船に乗って隣町の「大浦(おおうら)」まで行き、そこからバスなどで他の地域へ行っていたとのこと。

奥琵琶湖パークウェイの開通に伴い、村おこしとして9軒の民宿ができてしばらく賑わったそうですが、現在はほとんど閉業してしまったといいます。
道路開通で人口が半減… 新たな仕事で生計を立てる家庭も

菅浦で1軒だけ営業している料理屋さんがあると聞き、2人は行ってみることに。その道中、「“第何作業場”っていうのがいっぱいある」と鹿取さん。集落の至る所に“作業場”と書かれた小屋が点在していることに気づき、何が行われていたのか疑問を抱きます。

2人は、菅浦で唯一の料理割烹「佐吉(さきち)」を訪問し、集落の歴史について伺います。

店主の話によると、奥琵琶湖パークウェイができる5年前、自衛隊によって湖岸沿いに細い未舗装路が造られましたが、大浦の手前の「奥出湾(おくでわん)」で道は終わっていたそう。かつては渡し船で渡り、そこから学校まで歩いて行っていたようですが、奥琵琶湖パークウェイの開通後、長浜の中心地に直接行けるようになりました。

しかし、昔から地場産業が弱かった菅浦では、奥琵琶湖パークウェイの開通をきっかけに仕事を求めて村を離れる人も多かったそう。昔と比べ、人口も戸数も今は半分に減ったと言います。
そんな菅浦に目をつけたのが、ディーゼルエンジンを製造し、農業機械や船舶用エンジンなどを展開してきたヤンマーディーゼル(現ヤンマーホールディングス)の創業者であり長浜出身の山岡孫吉(やまおかまごきち)さん。

昭和35(1960)年、エンジンの部品などを作る工場を20か所設置し、菅浦の住民に業務を委託。それにより仕事が生まれ、生計を立てていた人たちもいたとのこと。現在は1か所に集約して稼働しているそう。

琵琶湖に繋がる階段について聞くと、昭和54(1979)年に菅浦に漁港が造られた際、琵琶湖で洗い物や洗濯をするための階段を設置。下水道が整備されるまで使われていたといいます。
“自分たちの村は自分たちで守る”江戸時代まで機能していた“惣村”

最後に訪れたのは、菅浦郷土資料館。職員の話によると、菅浦では中世に生まれた「惣(そう)」と呼ばれる自治組織を作り、江戸時代中期まで機能していたとのこと。

その中には、裁判官のような“長老衆”と呼ばれる役職があり、“自分たちの村は自分たちで守る”という精神をもとに「土地の境界線を双方の意見を聞いて決めたり、罪人を裁いたりしていた」そう。昔は8人担当がいて、江戸時代までは菅浦の罪人を裁く役割を担っていたといいます。

また、四足門についての話も。四足門は“要害の門”として建てられ、普段は倒れないよう大きな石で押さえているとのこと。外から攻められた際に石をはずして四足門を倒し、内部に人を入れないようする役割があったといいます。

惣村(そうそん)時代の集落の記録が書かれた「菅浦文書(もんじょ)」は、歴史的価値が高く貴重な史料として国宝に指定されています。集落の至る所に当時の遺構が保存されており、ここに刻まれた歴史はこれからも後世へと引き継がれていきます。
CBCテレビ「道との遭遇」2026年6月30日(火)午後11時56分放送より





