「鉄の雨」が、空から降り注いだ、あの日。
その地獄を、語り継ぐ人々がいます。
70年を経て、失われつつある歴史の証言
愛知県豊川市。
東洋一の軍需工場と言われた”豊川海軍工廠”がありました。
太平洋戦争間近の1939年に作られ、広さはおよそ90万坪戦闘機用の機関銃を作る「機銃部」。
弾丸を作る「火工部」
軍事用の双眼鏡や銃の照準器、特攻兵器だった人間魚雷・回天の潜望鏡などを作る「光学部」等
敷地内に700もの工場が建ち並び最盛期には56000人が働いていました。
その中には戦時中の国家総動員法に基づく動員学徒や女子挺身隊など10代の少年少女も大勢いたのです。
1945年8月7日、暑い日でした。
午前10時13分
B29 124機が12の編隊に分かれ襲来
26分間で3256発の爆弾を投下
日本軍による迎撃はほとんどなく
ほぼ無防備で爆撃を受けたのです。
建物の大半は完全に破壊され2500人以上が死亡。
アメリカは事前に工廠内の正確な図面を作り
どの建物が燃えやすいのかを把握した上で爆撃を行いました。
前の日には広島に、そして2日後には長崎へ原爆が投下。
日本の敗戦が決定的になっていた中での大規模な空襲でした。
空から降ってきた「鉄の雨」と、2発落とされた「原爆」。
東洋一と言われた愛知県の豊川海軍工廠で 空襲をくぐり抜けた3人の語り部たちが
地獄と化したあの日を証言しました。
CBCテレビ 2015年8月放送 『鉄の雨と原爆 ~いま伝える戦争の真実~』