竜党として中田翔の引退発表に思う「なぜ今?」「なぜファイターズのユニホーム?」

それは突然のニュースだった。中日ドラゴンズの中田翔が、今季限りで現役を引退することになった。2025年(令和7年)8月15日に記者会見、くしくも80回目を迎えた「終戦の日」の午後だった。(敬称略)
中田翔というスラッガー

中田翔には“スラッガー”という呼び名が相応しい。大阪桐蔭高校時代から強打者として注目され、2008年(平成20年)に北海道日本ハムファイターズでプロ野球人生をスタートした。栗山英樹監督の下で、その打棒は大きく花開き、2014年(平成26年)には、シーズン100打点で初の打点王に輝く。合わせて3度の打点王を獲得するなど、ファイターズ打線の中心だった。侍ジャパンにも選ばれ、日本を代表する打者のひとりでもあった。その後讀賣ジャイアンツへ移籍、2023年(令和5年)のオフに、立浪和義監督(当時)のラブコールに応える形で、ドラゴンズブルーのユニホームを着た。
ドラゴンズでの苦闘1年半

背番号は、ファイターズ時代と同じ「6」番。2024年(令和6年)開幕ゲームの神宮球場でいきなり放ったホームランは、ドラゴンズファンを大いに喜ばせた。ようやく“強竜打線”復活の使者が舞い降りたと思った。しかし、持病の腰痛などもあり、シーズンは62試合の出場にとどまった。46安打、ホームラン4本、打点21というシーズン成績は、2年契約6億円(推定)という球団の期待を、大きく裏切るものだった。
それでも移籍2年目となった今季は、オフに15キロの減量をして、2月の沖縄キャンプではキレのいい動きを見せていた。5月には本拠地バンテリンドームで初めてお立ち台にも立った。しかし、ほどなくして腰痛が再発して1軍を離れた。今季ここまで25試合、10安打、ホームラン2本。中田がこだわり続けてきた打点はわずか4点である。そして、現役引退を決意した。
選手にもファンにも慕われた

試合前にバンテリンドームで行われた引退発表の記者会見には、大野雄大はじめ10人のドラゴンズ選手が駆けつけ、花束を手渡した。中田は後輩たちへのアドバイスを惜しまず、また、広島遠征の時に野手陣を実家に招待して“おふくろの味”を振る舞うなど、すっかりチームに溶け込んでいた。それは多くの選手が語っている。名古屋には家族で引っ越してきた。道路の中央を走るバス専用レーンに「驚いた」と笑って感想を語るなど、名古屋の街にも親しんでくれていたはずだ。そうしたことを理解した上で、竜党として、あえて2つの疑問を投げかけたい。
なぜ?この時期の引退発表
ひとつは、引退の発表がなぜ今なのか?中田本人は記者会見で「2か月前に引退を決断した」と明らかにしたが、今、チームは13年ぶりのクライマックスシリーズ出場に向けて、熾烈な戦いの真っ只中である。「波風が立った」とまでは言わないが、中田翔という大物選手の現役引退という決断の重さ、チーム内の空気は何かしら“動揺した”はずである。事前に球団とは打ち合わせしていたとは思うが、選手個人の去就についての発表は、ペナントレースの趨勢(すうせい)が決まった後でもよかったのではないだろうか。
なぜ?日本ハムのユニホーム
もうひとつは、球団からの正式発表前夜に、中田本人が自らのインスタグラムに投稿した1枚の写真である。札幌ドームのグラウンドにひとりで立つ後姿の中田、背番号は「6」、そして、そのユニホームは北海道日本ハムファイターズだった。野球人・中田翔としては、3度の打点王に輝くなど、14年間を過ごしたファイターズ時代への思いが強いことは理解できる。それでも、現在は、中日ドラゴンズの選手なのである。引退会見では、ドラゴンズ、そしてドラゴンズファンへ感謝の言葉を何度も語っていた。それならばこそ、それだからこそ、哀しく淋しい思いが胸に去来する。この写真が、バンテリンドームで、ドラゴンズのユニホーム姿だったのなら、竜党として現役引退に対する気持ちがまた違っていたというのが偽らざる本音である。最新の投稿写真は、ドラゴンズでのホームラン姿だったこと、これはしかと受け止めたい。
この稀代のスラッガーは、今後自らがバットを置く瞬間のことをイメージしていくことだろう。野球ファンとしては、その締めくくりに興味もある。しかし、ドラゴンズファンとしては、今は、本拠地で3連敗してしまったチームの“土俵際”を心配するだけで目一杯。ひとりの選手の現役引退にまで思いを馳せる、そんな気持ちの余裕はない。
【CBCマガジン専属ライター・北辻利寿】
※中日ドラゴンズ検定1級公式認定者の筆者が“ファン目線”で執筆するドラゴンズ論説です。著書に『屈辱と萌芽 立浪和義の143試合』(東京ニュース通信社刊)『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』『竜の逆襲 愛しのドラゴンズ!2』(ともに、ゆいぽおと刊)ほか。