中日クラウンズの歴史

プレイバック 60回大会

宮本勝昌
宮本勝昌
昭和の男が、令和の男に。
23回目の挑戦で、ついに和合を攻略。

2019年、令和最初の男子ゴルフトーナメントとなった第60回大会。今平周吾と並んで迎えた18番パー4。宮本のバーディパットは手前から10メートル、ラインも傾斜も複雑なスネークラインが残っていた。宮本は、ハウスキャディーの遠竹則子さんに聞いた。「則ちゃん、フックに見えるけど切れないよね?」間髪入れずに言葉が返ってきた。「切れません、真っすぐ打ってください」。和合のキャディー歴8年の遠竹さんを信じて打ったボールは最後のひと転がりでカップを鳴らした。宮本は夢の世界にいるようだった。ふと、遠竹さんを見ると号泣している。宮本はガッツポーズも忘れ遠竹さんを抱き締めた。47歳、昭和生まれの男が、令和の最初の勝者となった瞬間だった。

23回目の出場で、超ポジティブなキャディーと4日間

 和合が大の苦手だった。過去22回の出場で、トップ10入りしたのは2013年の1回だけ。それもぎりぎりの9位だった。若い頃から飛距離に自信があった宮本だが、和合の短いホールには跳ね返されてきた。そんな苦手意識は、ちょっとしたミスでもぼやきに変わった。「だから、和合は嫌いなんだよ」。
 キャディーの遠竹さんは、こんなネガティブな言葉を何度聞いたかわからない。
 初日は66で首位タイ発進、2日目は首位から後退したものの、それでも1打差の3位タイ。スコアも1アンダーの69だった。3日目も67で回り、通算8アンダーで首位に1打差の単独2位という好位置につけていた。
 過去の中日クラウンズの宮本の成績を思えば、大健闘といえた。なのに、長年、コースにいたぶられ続けてきた宮本の心の中には弱気の虫が相変わらず巣くっていた。
 象徴的な場面が首位に1打差で出たスタートホールの短いパー4。2打目をグリーン手前のバンカーに落とすと、不運にも目玉になっていた。なんとかオンさせたが、ここで宮本は痛恨の3パットを叩く。いきなりのダブルボギー発進に、宮本の気持ちは萎えた。
 2番のティーイングエリアに行くと、すでに移動していた遠竹さんが「プロは試合を面白くするために接戦にしたんですよね!」と言ってきた。根っからのプラス思考のキャディーさんの励ましの言葉に宮本は内心ムッとしたが、苦笑いで返した。
 「もう少し、ゆっくり歩きたいのにぐいぐい押されたり、そのポジティブさに苦しい時もあった。だけど、そのおかげで優勝できました」。振り返ってみると、どんなに遠竹さんには助けられたことか。今はもう、感謝しかなかった。
 16番グリーン横のスコアボードを見ると接戦だった。遠竹キャディーは「グリーンに乗ってからは私の仕事だと思っていましたし、宮本プロには私がいるから大丈夫、と言っていました。18番で長いスネークラインが残った時も、バーディが取れると思っていました。なぜか自分でもわからないですけれど」と振り返る。

とにかく和合が苦手だった

 勝負には付き物の幸運もあった。それは、上位がスコアを伸ばせなかったことである。優勝スコアの通算9アンダーは最終日に1つ伸ばしただけ。ダブルボギーでスタートしながら、盛り返せた要素もそこにあった。宮本より3組前で回った今平周吾が、最終日に怒涛の4アンダーで追撃、通算9アンダーで単独首位に立ち18番を迎えた。だが、2打目をバンカーに入れてしまいボギーとし、スコアを落とした。優勝を争った今平でさえ、通算8アンダー止まり。最終組だった貞方章男も最終18番でダブルボギーをたたいていた。つまり、周りのスコアの伸び悩みが、弱気だった宮本に再度活力を与えた最大の理由だった。
 47歳にして、思ってもみなかった中日クラウンズの栄冠。しかも、それは節目の60回記念大会で突然やってきた。「今までの優勝の中で一番タフな最終日だったような気がします」と宮本。それは確かだろう。過去に11勝しているとはいえ、苦手な和合で勝てたのだから。

最終日、18番Hのボギーが惜しまれる今平周吾

最終日、18番Hのボギーが惜しまれる今平周吾

病魔、腰痛に見舞われた2018年

 攻略したのは和合だけではなかった。病魔にも打ち勝っていた。
 ひどいめまいで立てなくなったのは2018年の6月。病院に行くと、細菌の感染で発症する神経の病気と分かった。「いい薬もない。いつ治るかもわからない。後遺症が残る可能性もゼロではない」と言われた。朋美夫人に支えられなければ、歩くこともできなかった。
 そんな症状が1か月以上も続き、なんとか癒えたと思ったら今度は腰痛が再発した。体もゴルフも思うようにならず、ランキングはシード圏外にまで、下降した。
 そのオフ、宮本の姿が毎日のように、太平洋御殿場のアカデミーにあった。師匠の芹澤信雄が語る。「『最近の若い連中は飛ぶ』と宮本がぼやくから、お前、しっかり振ったことあるかって言ってやったんだよ。いつもサラッと振っているだけだからね。で、振ってみたら300ヤード軽く飛んだ。あいつの顔がパッと明るくなったよ。それからだな、アカデミーによく来るようになったのは。オフの練習は藤田並みにやったよ」。特に力をいれたのはショートゲームだった。
 〝病魔〟はまだあった。パッティングするときの手の震えだ。ゴルファーにとって一番厄介なイップスという症状だ。ある日、藤田寛之に1本のパターを見せられた。藤田のホームコースである静岡県の葛城GCの研修生が使っていた重くて長いグリップのパターだった。グリップを左の手首を固定するように打つ、このアームロック式のパターで打つと、手は震えなかった。
 その藤田も芹澤とともに、18番グリーンで宮本を待ってくれていた。藤田は首位に3打差の5位タイ。藤田もまた、この中日クラウンズでは2位は何度もあるのに、勝てない選手の一人だった。そんなチーム芹澤の中で、ついに宮本が中日クラウンズの栄冠を手にしたのだ。
 「自分も悔しいのに僕の優勝を自分のことのように喜んでくれる藤田さんには感謝しかない」と宮本は言った。パターだけでない、藤田には多くの感謝する出来事があった。

18番グリーンサイドでは「チーム芹澤」の面々も祝福。左から芹澤信雄、藤田寛之、上井邦裕、高柳直人

18番グリーンサイドでは「チーム芹澤」の面々も祝福。左から芹澤信雄、藤田寛之、上井邦裕、高柳直人

家族の前での優勝は何度でも

 最終日がゴールデンウイークの5月5日だというのも幸運だった。家族たちも応援に来ていたのだ。2人の息子の前での優勝は父親冥利に尽きた。前夜の夕食、名古屋名物のひつまぶしを食べながら、「あしたもひとつ伸ばすよ」と家族に約束していた。
 「最終日は緊張もするし、シビアなプレーになるので、ひとつでも伸ばしてアンダーパーにできればいいなという気持ちだった」。終わってみれば約束したとおりの「69」。苦手な和合(パー70)で、初日から66、69、67、69とすべて60台のスコアが並んでいた。過去の戦いを振り返れば、信じられないような4日間の数字だった。
 苦手な和合を克服した宮本は、2年を経て、どんなプレーを見せてくれるだろうか。コロナ禍を乗り越え、競技ができる幸せを噛み締めて、気持ちも新たに、素晴らしい戦いがここ和合で繰り広げられることに期待したい。

宮本勝昌

pageup