「セーラー服」はじめて物語~女子学生の青春を刻んだ制服の誕生と苦難の歴史

「セーラー服」はじめて物語~女子学生の青春を刻んだ制服の誕生と苦難の歴史
「現在のセーラー服」提供:金城学院

女子学生にとって制服の定番と言える「セーラー服」。その歴史をたどると、戦前から戦後にかけて日本が歩んできた時代が、歴史と共に浮かび上がってくる。

「セーラー服」は、もともと1857年に英国で生まれたとされる。「セーラー(sailor)」は“船乗り”を意味する言葉。19世紀当時のイギリス海軍には、統一された制服はなく、艦長の意向で軍艦それぞれの制服が決まっていた。しかし、それでは国としての統一感がないという声も出て、海軍共通の制服を作ることになった。甲板の上で作業しやすいように、2枚の布を前後に縫い合わせたシンプルな作りにして、大きな襟をつけた。英国王室の皇太子が着たことから「可愛い」と評判になり、子供服としても人気を集めるようになった。明治時代の日本にも持ち込まれ、1872年(明治5年)、日本も英国と同じように、海軍の制服として採用した。

そんな明治時代、日本の学校には、まだ制服はなかった。女子生徒は、髪は丸髷(まるまげ)や高島田に結い、着物に下駄という姿で学校に通っていた。明治も後半になると、袴(はかま)が登場したが、着物も袴も動きにくい。西洋からの情報が入りやすかった都市部の学校では、通学用に洋服を推奨するところも出始めた。

「ローガン先生一家」提供:金城学院

愛知県名古屋市に1889年(明治22年)に開学したミッション系の女学校、金城女学校(現・金城学院)もそのひとつだった。大正時代に入った1920年(大正9年)4月、新入生に対して「用意できる人は洋服で登校するように」と着物から洋服へと方針を替えた。毎日違う服では、家庭の負担も大変だろうと考えていた時、来日していたアメリカ人教師チャールズ・ローガンさんの娘が、水兵服を着ていた。その頃の欧米には、男の子にも女の子にも、水兵の服を着せる流行があった。

「可愛い!これを制服にしたらどうだろうか?」

「1921年当時のセーラー服」提供:金城学院

金城女学校の先生たちは、この洋服をひと目見て気に入った。早速、ローガン先生から娘さんの服を借りて、寸法を測ったり、型どりしたりして、新しい制服作りをスタートした。英国のセーラー服はズボン姿だったが、金城女学校はスカートを組み合わせることにした。こうして「上は水兵服、下はスカート」という新しいセーラー服が誕生した。京都の平安女学院が前の年に洋式の制服を採用していたが、こちらはワンピースだった。上下が分かれている現在のような「セーラー服」は金城女学校が日本で初めて、金城学院によると大学の研究者の論文にもその歴史が掲載されて発表された。

「戦時中のセーラー服1944年」提供:金城学院

新しい制服は誕生したが、慣れない新入生の中には、服の前後を間違えて、さかさまに着てくる生徒もいた。このため、学校では、新しい「セーラー服」をより理解してもらおうと、父母を招いてのファッションショーを開催するなど、定着に努めた。しかし、太平洋戦争が始まると、セーラー服にも苦難の時代が訪れた。「おしゃれはぜいたく」という空気が社会にも学校にも漂い始めて、スカートは禁止された。それでも金城女学校は、スカートの代わりにモンペをはきながら、上着だけは「セーラー服」を守り続けた。同時に、紺色の襟に入っていたシンボルの白線も3本から1本に少なくなった。戦争が終わって、スカートも許されて、再び以前のような「セーラー服」に戻ったが、金城女学校は、襟のリボンは戦争中と同じ「1本のまま」と決めた。それは、戦火の中を懸命に生き抜いたことを忘れず、平和に感謝したいという強い思いからだった。金城学院のセーラー服の白線は現在も1本である。

最近では、男女共通のブレザーやスーツの制服を採用する学校も増えてきたが、セーラー服はそれぞれの学校の歴史と共に、時代を歩んできた。「セーラー服はじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが“青春のまばゆいきらめきと共に”刻まれている。
         
【東西南北論説風(356)  by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】

※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。

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