普天間基地返還合意から25年の春、米国モンデール元駐日大使逝く

普天間基地返還合意から25年の春、米国モンデール元駐日大使逝く

かつて駐日大使を務めたウォルター・モンデール氏が亡くなった。享年93歳。沖縄県にある米軍普天間飛行場の全面返還合意に大きな役割を果たした政治家は旅立った。返還合意からちょうど25年の春、しかし実現の道筋はなかなか見えてこない。

「世界一危険な米軍基地」の25年

普天間飛行場は、沖縄県宜野湾市にある米軍海兵隊の基地で、市の面積のおよそ4分の1を占める巨大な施設だ。周囲には住宅地や学校が密集していて、「世界一危険な米軍基地」とも言われている。配備されているオスプレイなど米軍機の爆音や騒音といった日常的な問題に加え、落下物などに対する安全問題も、地元にとっては放置できない状態が続く。そんな普天間飛行場、実は日米両政府の間で、返還の合意がなされている。きっかけは1995年に起きたアメリカ兵による少女暴行事件だった。米軍への怒りは沖縄県を中心に日本中に波及し、当時の橋本龍太郎内閣によって米国クリントン政権との間で返還交渉が進められた。その時の駐日大使が、かつて副大統領も務めたことがあるモンデール氏だった。全面返還が合意された際には、橋本首相と共に記者会見の場にのぞんだ。

実現しない返還の約束

そして歳月が流れた。2021年4月12日、返還合意から25年を迎えたが、四半世紀たっても、基地の返還は実現していない。当時の合意では「5年から7年以内の全面返還」だった。本来ならば「もうとっくに」という期限だ。しかし、合意には条件が付いていた「代わりの飛行場は沖縄県内」と。普天間飛行場の移転先は、沖縄本島北部にある名護市、その辺野古沖となった。160ヘクタールの海を埋め立てて、滑走路2本を持つ飛行場を作る計画だ。2018年12月に土砂の埋め立てが始まってから2年半余り、反対の声が渦巻く中、工事は進められている。そこに新たな問題も持ち上がった。予定地の海底に、軟弱な地盤が見つかったのだ。

辺野古工事の新たなハードル

画像『写真AC』より辺野古普天間飛行場代替施設の建設工事

専門家をして「マヨネーズ状態」とも指摘させる地盤、砂を固めた杭を7万本以上海底に打ち込んで補強しなければならなくなった。総工費は当初想定されていた額の2.7倍、
9300億円に増えた。また、2022年度と言われていた完成も「早くても2030年代の半ば」と大幅に遅れることになった。当初の計画は姿を変えている。2019年に行われた県民投票では、7割が辺野古埋め立て反対。それでも工事は続けられているが、「代わりの施設ができた上」という現状の条件下では、普天間飛行場返還が実現する道は遠い。

沖縄の基地も安全保障の渦中に

画像『写真AC』より普天間飛行場の空撮写真

一方で、沖縄にある米軍基地を取り巻く環境も変化している。2021年4月中旬、バイデン大統領が初めて対面で会談する外国首脳として、菅義偉首相を招いての日米首脳会談が行われたが、大きなテーマになったのは中国に関する安全保障問題だった。普天間飛行場をめぐる沖縄県の負担軽減が長きにわたって主張し続けられる中、中国への戦略上、沖縄の米軍基地の位置づけも大きく変わりつつある。普天間飛行場の返還問題には、新たなそして重いハードルが加わったと言えよう。時が経つということは重い。

沖縄への変わらぬ思い

かつて米兵による許しがたい事件が起きた時、駐日大使だったモンデール氏は即座に被害者そして沖縄県に謝罪した。その誠実な姿勢は、人の心と情を大切にしている沖縄の人たちの心にも残った。歴代の沖縄県知事が亡くなった時は、海の向こうから追悼を表明し、沖縄への変わらぬ思いを見せたモンデール氏。今回の逝去に対して、玉城デニー沖縄県知事も早々にモンデール氏への弔意を示した。

返還合意から25年の歳月、そしてアメリカ側の尽力者の旅立ち、この2つの節目を迎えた2021年の春、基地問題の行方は日本全体で今後も注視していかなければならないと、あらためて心に思う。

【東西南北論説風(226) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】

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