「乾電池」は日本で生まれた!雪国に育った時計職人が発明した生活必需品

「乾電池」は日本で生まれた!雪国に育った時計職人が発明した生活必需品

私たちの暮らしに欠かせない「乾電池」は日本で生まれた。その誕生には、雪国である越後で生まれ育ったひとりの時計職人の、まさに寝食を忘れるような研究努力があった。

乾電池は「乾いた電池」と書く。実は、電池は最初“湿って”いた。液体電池だったからだ。世界で最初に電池を発明したのは、イタリアの物理学者アレッサンドロ・ボルタ氏である。ボルタ氏は、銅など2種類の金属を電解液の中に入れることで化学反応を起こして電気を生み出す「ボルタの電池」を1800年に創り出した。電圧の単位である「ボルト」は、ボルタ氏の名前から付けられた。電気を生み出す仕組み、このために液体は必要不可欠なものなのだが、こぼれないように持ち運ぶことは大変だったという。そんな液体電池は、米国ペリー艦隊が黒船で来航した江戸時代の末期、幕府への土産として日本に届いた。

「屋井先蔵氏」提供:一般社団法人 電池工業会

そんな日本で新選組が結成され、米国は南北戦争真っ只中だった1863年(文久3年)、越後の長岡藩(現・新潟県)に、男の子が誕生した。屋井先蔵(やい・さきぞう)さんである。明治時代に入って、屋井さんは東京の時計店で丁稚として働き始める。その後、故郷の長岡に戻った屋井さんは22歳になった時に、電池を組み込んで時計を電気で動かす「電気時計」を発明した。時を刻む正確さは評価されたものの、使われていたのが液体電池だったため、液体がこぼれて部品が錆びる上、冬になると液が凍結してしまい、せっかくの時計も止まってしまった。
「何とかしなければ」と、屋井さんは電池の改良に挑む。昼間は職場の仕事、夜は電池の改良と、平均睡眠時間が1日あたり3時間だったと伝えられている。屋井さんは、液体が沁み出さないよう、水に溶けないパラフィン(石蝋)を使用することで液体を固めて漏れをなくし、さらに金属のケースでそれを包み込んだ。1887年(明治20年)、記念すべき「乾電池」の誕生である。「屋井乾電池」と名づけられた初期の乾電池は、高さ12センチの大きさの四角形だった。

「明治時代の屋井乾電池販売部」提供:一般社団法人 電池工業会

ところが、画期的な発明だった「屋井乾電池」はまったく売れなかった。当時の日本にはそもそも乾電池で動かすような電化製品そのものが多くなかったからだった。それでも、1892年にシカゴで開催された万国博覧会に出品された地震計の電源として、世界から注目を集めた。大きな評価を得たきっかけは1894年の日清戦争だった。戦場での連絡に欠かせない電信機のために、陸軍から「屋井乾電池」に対し大量の注文が届いた。戦地の満州は寒く、氷点下の世界。従来の液体電池はすぐに凍ってしまい使いものにならなかったが、「屋井乾電池」はその力を十分に発揮した。「日本の勝利は乾電池によるもの」とニュースでも大きく報じられて、屋井さんの研究成果は、一躍注目を集めた。屋井さんは会社を設立して、乾電池の大量生産に乗り出していった。

「高性能リチウムイオン蓄電池」提供:一般社団法人 電池工業会

日本の乾電池は、その後「単1形」「単2形」という規格ができ、さらに戦後は1951年に「単3形」、さらに「単4形」と「単5形」と今日の姿へと歩んでいく。パワーがあり長持ちするアルカリ電池、小さな電流で懐中電灯やリモコンなどに使い勝手の良いマンガン電池など、その種類も増えた。屋井さんの出身地である新潟県長岡市には、リチウムイオン電池の部品工場ができるなど、今も「電池のまち」として歩んでいる。

今やどこの家庭でも身近に使われている乾電池、それを手にする時、ふと凍てつく寒さの雪国で生まれたひとりの時計職人に思いを馳せてみる。その開発への心意気がなければ、世界で最初となる乾電池は生まれなかった。日本生まれ・・・「乾電池は文化である」。

【東西南北論説風(241)  by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】

※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿のコレ、日本生まれです」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして紹介します。

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