ドラゴンズ選手がグラウンドで負傷!赤ヘル軍団「広島カープ」との激闘(05)

ドラゴンズ選手がグラウンドで負傷!赤ヘル軍団「広島カープ」との激闘(05)

今ふり返っても、1975年(昭和50年)は「V2」という言葉と共に、熱く過ぎていった。
7月、沖縄では海洋博が開催され、くしくもその1か月前に沖縄本土復帰の道筋を引いた佐藤栄作元首相が死去していた。海洋博が始まり世界の注目が沖縄に集まる中、8月には日本赤軍がマレーシアの首都クアラルンプールでアメリカ大使館を占拠する国際的大事件も起き、海洋博とは違った意味で「日本」が注目された。ドラゴンズは初の連覇をめざして“熱い”夏を送っていた。

スポーツ紙の見出し予想ゲーム

日記に毎日、ドラゴンズの試合のスコアと寸評を書くようになったことは先に紹介したが、もうひとつ、中日球場(現・ナゴヤ球場)近くのわが家ではユニークなゲームが始まった。「翌日の中日スポーツの見出し予想」である。
祖父母、父母、そして私と妹、親子3代が同居する一家であり、このゲームには、両親と妹、そして私の4人が参加した。
ドラゴンズの試合結果を見た上で、毎日宅配で購読している中日スポーツの大見出しや小見出しを予想しようと言うもので、1冊のノートにそれぞれが予想した見出しを記入した。正解者には1000円の賞金が出て、そのスポンサーは両親だったことから、きっと親が始めようと提案したのかもしれない。
このノートは実家の母親によって大切に保管されている。今読み返すと、例えば、ドラゴンズが4対4で引き分けた試合・・・

父「やったぜ大島君、土壇場の同点ホームラン」
母「中日 9回2死のお家芸」
私「強し!執念の竜 9回2死大島同点2ラン」
妹「さすが!一発長打の大島君」

そして正解は「男だ大島 同点2ラン」。こういうことを一家でやろうというところに昭和という時代の匂いを感じるが、今ふり返っても珍しい家族だと思う。それだけ、本拠地の球場近くに住み、ドラゴンズと一緒に生きてきたということだろうか。
当たりそうでなかなか当たらない中、私はついに初めての「的中」を出した。接戦の末、ゲームを落とした見出し予想・・・今でも鮮明に覚えている。
「無念中日あと一歩」
最初で最後の1000円獲得だった。部分正解賞として300円もらったことはあったが・・・。

連覇に立ちはだかる赤ヘル軍団

そんな燃えるファンの声援を背景に、ドラゴンズはV2街道を突き進んでいった。
度々首位に立ちながら、ペナントレースをリードしていた。しかし、その前に立ちはだかったのが球団初の優勝をめざす広島東洋カープだった。
シーズンスタート時のジョー・ルーツ監督は早々に辞任、代わりに監督を引き受けた古葉竹識氏は「古葉マジック」と呼ばれる絶妙の采配を披露、この年のオールスターゲームで、山本浩二、衣笠祥雄という主力2人がホームランを競演し、赤いヘルメットと共に「赤ヘル軍団」という呼び名は一躍全国区になった。

悲しき大乱闘に怒りと涙

広島は名古屋に負けない熱い町であり、熱いファンが多かった。ましてや悲願の初優勝がかかっている。そんな中で9月10日、広島市民球場では不幸な出来事が起きてしまった。
ゲームは先発の星野仙一投手が自らホームランも打つなど活躍。5対4、ドラゴンズ1点リードの9回裏、2死2塁からヒットでランナー三村敏之選手がホームへ。しかし、新宅洋志捕手は猛然とタッチして判定はアウト。ドラゴンズ勝利でゲームセットとなった。このクロスプレイで新宅捕手のタッチの仕方をめぐって三村選手が抗議したことをきっかけにカープファンがグランドになだれ込み、あろうことかドラゴンズの選手6人も暴行を受けたのである。広島県警の警察官がグランドに駆けつけたが、ファンの興奮は収まらなかった。高校生の私も怒り心頭だった。
当時の日記にはこう書いている。
「ドラゴンズ選手は殴る蹴る、酒や砂をかけられるなどひどい暴行を受け午後11時5分まで球場に閉じ込められる有様。怒りに震える中日ファン。いつか中日球場に広島が来た時はどうしてやろうかと思うが、悪いのは選手でなくファンだ。大切な名古屋の宝、ドラゴンズをよくも!」。
ちなみに中日スポーツの見出しは「広島ファン腹いせの暴行 星野仙 剣が峰で火の玉」。やはり中スポも怒っていたことが紙面からもうかがえた。

前代未聞のゲーム中止

翌日のゲームは、警備上の安全が保障できないと中止になった。まさに前代未聞の出来事だった。
応援歌を募集するなど、ドラゴンズのV2を盛り上げていたのが、CBCラジオ『ばつぐんジョッキー』であり、月曜日の板東英二さんのドラゴンズ応援、木曜日の上岡竜太郎さんのタイガース応援のエール交換は番組の名物であった。
タイミングがいいのか悪いのか、広島球場の暴行事件の翌日は木曜日にもかかわらず、板東さんがピンチヒッターをつとめていた。板東さんが何を語るか、ファンの怒りをどのように代弁してくれるか、授業のため生放送で聴くことができなかったため、ラジオ放送の録音を母に頼んだ。前年20年ぶりの優勝決定ゲームに続き、ラジオカセットの出番であった。

竜の失速それでも意地を!

この事件を境目に、広島カープは初優勝に突き進み、ドラゴンズは失速し始めた。
わが愛すべきチームは、こうした局面には弱かったようだ。
学校祭のために高校が代休だった10月14日の火曜日、ジャイアンツ戦がデーゲームで行われていた中日球場へ出かけた。最初、空いていた左中間の外野席に座ったが、周りのジャイアンツファンの応援が居心地悪く、席をドラゴンズ応援団に近い方に移動した。当時の応援団はあまり組織だったものがなく、そんな中「中日狂団」と名乗った私設応援チームが頑張っていた。ストレートなヤジもツボにはまっていて、大いに楽しんだ思い出がある。
外野席で観戦しながらチラシをはさみで切り紙吹雪を作り、作りながらそれを巻くというのも新鮮だった。日記帳を開くと、その紙吹雪が2枚はさんであるから、高校生の私はよほどその時の応援に興奮していたのだろう。
ゲームは6対4でドラゴンズがジャイアンツを破って、カープの優勝に待ったをかけた。ジャイアンツはこの年、球団史上初の最下位となり、“ミスタージャイアンツ”長嶋茂雄さんは監督として屈辱のスタートとなった。

広島カープが初優勝を決めたのは、その翌日のことだった。夕暮れの後楽園球場で胴上げされる古葉監督の姿を見ながら、春からずっとくり返し続けてきた合い言葉「V2」が夢と終わった敗北感に打ちひしがれたのだった。
「中日が敗れた思いが名古屋の町を包み、お城のシャチも淋しそう」
名古屋城近くの高校に通っていた1年生の私はこう日記に綴り、V2の夢をあきらめたのだった。(1975年)

【CBCテレビ論説室長・北辻利寿】
※ドラゴンズファンの立場で半世紀の球団史を書いた本『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』(ゆいぽおと刊・2016年)を加筆修正して掲載いたします。

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