エフゲニー・キーシン 50th Anniversary ~写真で辿るデビューからの軌跡~

名古屋へは10年ぶり!
日本デビューから35年、この秋50歳の誕生日を迎えるキーシンの
幼少期から、恩師・カントール先生との想い出・・・貴重な写真で辿るデビューからの軌跡です。

冬のモスクワで遊ぶ幼少期のキーシン
神童として注目を集めたヴァイオリンのレーピンとは同級生
恩師・カントール先生に花束を捧げるキーシン
1986年、初来日のリハーサル風景(スピヴァコフが帯同)
1986年の初来日時、昭和女子大学 人見記念講堂でのリサイタル
1987年、2度目の来日には無名時代のゲルギエフが帯同した
冬のモスクワで遊ぶ幼少期のキーシン
神童として注目を集めたヴァイオリンのレーピンとは同級生
恩師・カントール先生に花束を捧げるキーシン
1986年、初来日のリハーサル風景(スピヴァコフが帯同)
1986年の初来日時、昭和女子大学 人見記念講堂でのリサイタル
1987年、2度目の来日には無名時代のゲルギエフが帯同した

◆デビューから初来日まで

わずか2歳でピアノを学び始め、6歳で名門グネーシン音楽院に入学が許されたキーシン。10歳のときにモーツァルトのピアノ協奏曲第20番でデビュー、翌年にはモスクワでソロ・リサイタルを成功させた。12歳でモスクワ・フィル(キタエンコ指揮)とショパンの協奏曲を演奏し、このライブ録音が世界の注目を集めることになった。日本への初来日は1986年、15歳のとき。

◆巨匠ゲルギエフが“付き添い”!?

1986年、初来日当時のソビエト文化大臣は、資本主義国の日本で15歳の少年キーシンに演奏させることに難色を示したため交渉は難航。指揮者のスピヴァコフとモスクワの室内管弦楽団を帯同(護衛!?)させることでようやく来日の許可が下りた。翌1987年も事情は同じ。当時まだソビエトでも無名だったワレリー・ゲルギエフが伴奏指揮者としてキーシンに帯同(護衛!?)するという条件でようやく来日が実現した。

◆17歳でカラヤン指揮&ベルリン・フィルと共演

20世紀最大の指揮者カラヤンもキーシンの才能に魅了された一人。1988年、最晩年のカラヤンはベルリン・フィルの大晦日のコンサートにキーシンを招き、チャイコフスキーの協奏曲で共演を果たした。この演奏により、キーシンは17歳にして一躍スターダムへと駆け上がった。

◆2度のグラミー賞!ノミネートはなんと12回も!!

音楽界の「アカデミー賞」とも評される「グラミー賞」。候補にノミネートされるだけでも話題になる権威ある「グラミー賞」にキーシンは1991年以来、なんと12回もノミネートされている。そして2005年にはストラヴィンスキーやスクリャービンのアルバムで、さらに2009年にはプロコフィエフの協奏曲で2度「グラミー賞」の栄冠に輝いている。

唯一の師であるカントール先生と(左よりキーシン、カントール先生、キーシンの母)
唯一の師であるカントール先生と(左よりキーシン、カントール先生、キーシンの母)

◆今回の日本ツアーは、カントール先生に捧げたい・・・

キーシンが生涯にピアノを学んだのは、グネーシン音楽院で師事したアンナ・カントール女史ただ一人。国際的なコンクールにもほとんど出場しなかったキーシンは、音楽やピアノに関するほぼすべてをカントール先生から学び、世界最高峰のピアニストに上り詰めた。今年7月、最愛のカントール先生が98歳でこの世を去った。キーシンのフェイスブックにはメッセージが掲載され、この秋の日本ツアーを「カントール先生との想い出に捧げたい」とメッセージが届いた。

私の恩師、アンナ・パヴロヴナ・カントールが7月27日にこの世を去りました…98歳でした…
一緒に勉強をはじめてすぐに、アンナ・パヴロヴナは私にとって先生以上の存在になりました。
彼女は私の真の友人となり、家族の一員のようになりました。
彼女は私たち家族の全員と極めて親しい間柄になり、30年前に私たちは一緒に生活するようになったのです。
彼女は私のピアノの唯一の先生であり、私がピアノでできることはすべて彼女からの恩恵なのです。
彼女は真に素晴らしい女性であり、たぐいまれな高潔さと純粋さを持った人でした。
彼女の想い出にいつまでも祝福がありますように…

(キーシン オフィシャル・フェイスブックより)